保元の乱の前哨戦!“悪源太”を生んだ平安時代の戦い『大蔵合戦』とは? (2/3ページ)
大蔵合戦の背景―源義賢と秩父氏の関係性―
源義賢は、当時強い勢力を誇っていた秩父氏の秩父重隆(ちちぶしげたか)の娘と婚姻関係を結びます。二人のあいだには1154年に駒王丸(こまおうまる)という男の子が生まれていました。
ちなみに、この駒王丸はのちの木曽義仲(頼朝や義経のいとこ)です。
大蔵合戦の流れ源義賢が秩父氏と結びついていることで、関東圏で義賢の勢力が大きくなることを危惧した兄の義朝は、自身の息子である義平に命じて義賢を攻撃させます。ちなみに、秩父氏でも家督争い(秩父重隆と兄・畠山重弘(はたけやま しげひろ)との争い)がありました。
このことから、義朝・義平の相模国川は畠山重弘とその息子と手を組み、義賢・秩父重隆との対立軸を作っていきます。義賢が婚姻後に移り住んだ大蔵館に攻めたことから、「大蔵合戦」と呼ばれています。
合戦は、相模国側の勝利に終わります。
源義平は“悪源太”と呼ばれた
源義平はこの大蔵合戦当時15歳だったと言われていますが、義賢と秩父重隆を討ち取り武名を挙げたこと、その暴れようから、“悪源太(あくげんた:または鎌倉悪源太とも)”と呼ばれるようになりました。