堅物なれど優しさ・忠義心はナンバーワン!武将・石田三成の名エピソード3選
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お茶にまつわる名エピソード
石田三成(いしだ・みつなり)のことは皆さんご存じですね。歴史に詳しくない人でも、名前を見聞きしたことはあるでしょう。
この人は「堅物」として有名ですが、実は人間味あふれるエピソードも数多くあり、大変人気が高いです。
彼の人となりが窺える逸話として有名なものに、大谷吉継とのエピソードがあります。
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『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』 大谷吉継の錦絵(Wikipediaより)
吉継は、三成と同様に豊臣秀吉の家臣だった人物です。白い頭巾を被った肖像画が有名ですが、彼はらい病(ハンセン病)を患っていたといわれています。らい病は主に皮膚と神経がらい菌に侵される病気です。
ある日、三成や義継などの大名たちが、大阪城で行われる茶会に招かれました。
茶会は当時大名たちの嗜みであり、またその場では、戦の恩賞の代わりに茶器が与えられることもありました。
そのお茶会で、義継の顔から瘡蓋が剥がれて、膿が茶碗に入ってしまったのです。
当時、らい病は恐ろしい不治の病であるとか、感染力がとても強い病気であるという誤った認識がありました。よって、義継の後に順番が回ってきた大名たちは、飲むフリだけをして決してお茶に口をつけようとしません。
ところが、なんと三成はそのお茶を一気に飲み干したのです。
そして「喉が渇き、すべて飲んでしまった。美味しかったのでもう一杯いただきたい」と言います。その三成の豪胆さや優しさに感銘を受けた義継は、三成を支える一生の盟友となりました。
お茶といえば、のちの主君である豊臣秀吉との出会いにも「三献の茶」という逸話があります。
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三成が寺付きの小姓だったころ、鷹狩りの帰りに寺を訪れた秀吉に対して、彼は三杯のお茶を用意しました。
一杯目は、飲みやすいようぬるめの温度で茶碗にたっぷり入れたものを。続く二杯目は、一杯目よりも少なめでお茶の味が感じられるものを。そして三杯目は、うんと少なく濃く淹れることで味を楽しめるようにしたのです。
このことからも、三成が細やかな気遣いの持ち主であることが伺えますね。
最後まで貫かれた忠義また、主君である豊臣家に対して大変忠義深い人物であることも知られています。
ご存じの通り、彼が大将となった西軍は、関ヶ原の戦いで敗れました。そして三成は東軍に捕らえられ、斬首が決定します。
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そして処刑直前のことです。三成と小西行長、安国寺恵瓊の三人に「江戸の上様からである」と言って小袖が送られました。
この「上様」とは家康のことを意味します。三成以外の二人はそれを受け取りますが、三成は「上様は秀頼公より他にいない。いつから家康が上様になったのだ」と言って受け取ることを拒否しました。
三成は自らの処刑を目前にしても豊臣家への忠義を貫いたのです。
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優しく忠義深いだけの男ではありません。三成はこの最期の処刑の際に見張りの兵士に水を要求します。「水はないから代わりに柿を食え」と言われると「柿は痰の毒である」と言ってそれを拒否しました。
処刑の前に毒を食らったところで何になろう、と周りの人間たちはそれを笑います。
しかしながら三成は「大志を持つ者は最期まで命を惜しむ者だ」と言い、最期のその瞬間まで自らの志を諦めることはありませんでした。
石田三成の人となりが少しわかるようなエピソードを紹介しました。ひと口に、堅物と言っても人間にはいろいろな面があるものですね。そうした人々の人間模様を探るのもまた、歴史の面白さです。
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