他の宗派と一線を画す日本最大の仏教宗派である浄土真宗の異彩さ (2/3ページ)

心に残る家族葬

真宗の看板は人間は無力であり悟りを開くことなどできないので、阿弥陀仏の慈悲にすがるしかないとする「他力」である。般若心経は自ら悟りを開くための「自力」の教えを説くものなので道が違うのである(「法華経」を絶対的真理とする日蓮系宗派でも心経は唱えない)。念仏のみを実践する真宗は、禅宗のような厳しい修行は行わない。密教の代名詞で、日蓮系でも行われている加持祈祷も同様である。つまり真宗には仏教・寺院に対する一般的なイメージのほとんどが存在しないのである。

日本仏教の中ではかなり特殊な形態なのは間違いなく、異端ではないかと思ってしまう。しかし上記に挙げた例を見る限り、真宗は仏教本来の道を外していない。釈迦は占い、まじない、荒行などを否定したことはよく知られている。釈迦の論でいえば祈祷や荒行を行いおみくじを引く方が異端といえるかもしれない。

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では信ずるは阿弥陀のみとする一神教的な他力信仰は仏教としては異端ではないのか。元々仏教は自力の宗教である。釈迦は過度に身体を痛めつけるだけの荒行は否定したが、深い瞑想を経て真理を悟った。地力でこの世を超越したわけである。禅が釈迦仏教の正嫡と呼ばれることがあるが、禅定の様子は悟りを開いた時の釈迦を連想させる。これに対して真宗は仏教というより一神教、キリスト教やイスラム教などを思わせる。一神教は人間の無力を自覚するところから始まる。人間は何もできない。自然災害も目に見えない運命もすべては神の思し召しであり、この世の苦しみから救われるには神に委ねるしかないとする。まさに「他力」そのものである。

親鸞も自分の、人間の無力を痛感し有名な「悪人正機説」に行き着いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。「悪人」とは罪を犯さざるをえない煩悩だらけの人間のことである。自分の胸に手を当てて考えてみればわかることだが、「悪人」とはすべての人間のことである。この世のどこに煩悩を持たない「善人」などがいるものか。阿弥陀仏の救いはこの世で苦悩する衆生すべてに向けられている。

この「悟り」から「救い」への転換に対し、親鸞はキリスト教を学んだとする説もあるほどである。

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