【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その1

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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その1

1186(文治2)年3月18日、鎌倉で一人の男児が産声をあげました。この子こそ、後に出家して貞暁(じょうぎょう)と名乗り、通称「鎌倉法印」として、多くの人々から崇敬を集めた人物です。

貞暁の父は「鎌倉殿」こと源頼朝母は頼朝の大蔵御所に出仕する侍女大進局(だいしんのつぼね)です。

庶子とはいえども頼朝の三男として誕生したからには、鎌倉幕府を支える武家としての輝かしい将来が開けるはずでした。

しかし、貞暁の前に立ちふさがったのは、頼朝正室の北条政子だったのです。彼女は、北条家の血を引かない男子を政敵と見なし、断固としてその存在を許しませんでした。

今回は、3回にわたり頼朝最後の男系男子・貞暁を主人公に、北条政子との因縁めいた波乱の人生をご紹介します。

[その1]では、大進局の懐妊貞暁誕生、そして母子の京都出立までをお話ししましょう。

大進局(だいしんのつぼね)が懐妊

 源頼朝。初代鎌倉幕府の将軍となり初めての武家政権鎌倉幕府を開府した。知られているだけで5人の男子をもうけている。(写真:Wikipedia)

大進局(だいしんのつぼね)は、頼朝の御家人常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)[伊達政宗の祖とされる]の娘として生まれたとされます。そして、頼朝の鎌倉における邸宅である大蔵御所に侍女として出仕、そこで頼朝に見染められました。

頼朝は、ことのほか大進局を寵愛します。だが、正室北条政子の目を気にして、密かに彼女との関係を続けたのです。逢瀬を重ねるうちに、局は頼朝の子を懐妊しました。しかし、その事実を政子に気づかれてしまうのです。

政子:なに、かの侍女が鎌倉殿の子を身ごもっただと。このままにしておくものか!

政子の激しい剣幕を目にした頼朝は、信頼する側近たちに対応策を相談します。

頼朝:景廉(かげかど)よ。政子の手がのびる前に大進局を信用できる者のもとへ移すのじゃ。

頼朝は側近の御家人加藤景廉(かげかど)に大進局の保護を命じました。景廉は一族である長門景遠の家[鎌倉由比ガ浜付近にあったと考えられる]に大進局の身を移したのです。

 大進局(イメージ)。伊達氏の祖・常陸入道の娘とされるが詳らかではない。後に伊達氏が貞暁を擁立しようとした事件が起きていることから信憑性はあるだろう。(写真:Wikipedia)

政子の悋気(りんき)の特徴とは

 頼朝没後も尼御台として幕府内で絶対的な権力を有した。その権力構造は常に実家である北条氏(義時・時房など)とともにあった。(写真:Wikipedia)

天皇家・公家・武家に限らず当時の貴種[高貴な家柄の者]にとって、子孫を残すため正室の他に多数の女性を側室とすることは至極当然のことでした。正室もまた、家の存続のために夫が他の女性と関係を持つことを許すとともに、後宮[その家に属する正妻・側室・召使などの女たち]の管理者として重要な役目も担っていたのです。

だが、北条政子は全く違っていたのです。彼女は非常に悋気[(りんき)情事に対する嫉妬心]の激しい女性でした。その悋気ゆえに大進局の懐妊よりも前に、事件を引き起こしているのはよく知られています。

牧の方:政子殿、ご存知か。亀の前が鎌倉殿の子を産んだそうですよ。

政子:母上様、それは誠ですか!本当だとしたら一大事。いかがいたしましょう。

牧の方:兄宗親に頼んで、懲らしめてやりましょう。

1182(寿永元)年8月、頼朝が流人時代から寵愛していたといわれる亀の前が出産したことを聞くと、彼女が暮らしていた伏見広綱[頼朝の右筆]の屋敷を、牧の方(まきのかた)[父北条時政の継室]の兄牧宗親(まきむねちか)に命じて襲わせました。この時、亀の前は命からがら逃亡、赤子の消息は知られていません。

この事件は、その後に大騒動に発展しています。政子の逆鱗に触れた広綱は流罪宗親は許しなく亀の前を襲ったことを頼朝から激しく咎められ逐電。それに反発した時政は、一時伊豆に立ち退くという事態に陥ったのでした。

政子の側室に対しての悋気には、特徴があります。それは頼朝が側室をつくることは大目に見ても、側室の懐妊・出産に対しては非常に厳しい態度をとっていることです。

政子にとって頼朝の跡継ぎは自分が産んだ子、すなわち北条の血が流れていることが絶対条件でした。他氏の血筋である側室が生んだ男子がその地位に就くことを、政子は断じて許さなかったのです。

 流人の頼朝が暮らした蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)に建つ「頼朝・政子の像」(写真:T.TAKANO)

貞暁の誕生により激怒する政子

 二代将軍源頼家。乳母・正室の実家比企氏を優遇し、母政子の実家北条氏と対立。将軍の座を追われた末、謀殺された。(写真:Wikipedia)

1186(文治2)年3月18日、大進局は長門景遠宅(鎌倉市由比ガ浜近辺か)で貞暁[幼名は不詳]を出産しました。頼朝にとっては、千寿丸[母伊藤祐親の娘八重姫]・頼家[母北条政子]に続いて3人目の男子の誕生です。[亀の前との子は不明なのでここでは数にいれない]しかし、生まれた子が男児であるということが、政子のさらなる逆鱗に触れたのです。

政子:大進局が産んだ赤子は男子とな。はなはだ不快じゃ!

男児の出産を知らされた政子は怒り心頭に達します。怖れた頼朝は出産の儀式を全て省略させました。それでも政子の怒りはおさまらなかったのです。

政子:ええい、不快じゃ、不快じゃ!景遠を呼べ!

政子の怨みは日を追うごとに激しくなり、大進局を匿った長門景遠を激しくなじったとされます。

頼朝:このままでは大進局と赤子の身が危うい。景遠よ、二人を連れて身を隠すのじゃ。その間に、余が政子をなんとかするゆえ。

頼朝は、大進局のために伊勢国三カ山に所領を用意します。そして、母子を鎌倉から逃がす準備をしつつ、政子の説得を試みました。

頼朝:政子よ、そう怒るな。余の跡継ぎは頼家しかおらぬ。かの赤子は、出家させるつもりじゃ。あの者が跡継ぎになるなど余が認めるはずかない。

 大進局が貞暁を出産した長門景遠宅があったとされる鎌倉由比ガ浜。(写真:T.TAKANO)

貞暁の上洛と仁和寺での出家

 貞暁が出家して仏道修行に励んだ京都仁和寺。(写真:T.TAKANO)

大進局と貞暁は、しばらくは世間から隠れるように暮らしました。時は過ぎ、1192(建久3)年になると政子は3回目の出産を迎えます。

この年、頼朝は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開府しました。政子にとって頼朝の将軍就任は、全ての武家の棟梁たる頼朝の後嗣は北条の血筋のみという思いがさらに増したのは間違いないでしょう。

そして頼朝の権力増大は、かえって貞暁の身に危機を及ぼしたことになります。順調に成長する頼家・まもなく誕生する子がいるにもかかわらず、政子の大進局・貞暁母子に対する怒りと警戒心は増すばかりで、一向に収まることはなかったのです。

1192(建久3)年5月19日、頼朝はついに決断を下しました。それは、大進局と7歳になった貞暁を上洛させ、彼を出家させることでした。それほどまでに貞暁の身に危険が差し迫っていたことが推測されます。

頼朝:貞暁よ、速やかに京の都に出立し、仏道に励むのだ。別れに太刀を授けよう。これが、お前の父がこの頼朝という証であると心得よ。

頼朝は貞暁上洛前日の夜、密かに母子のもとを訪ねて太刀一振りを与えたといいます。貞暁と大進局は、長門景国らわずかな供とともに京へ旅立ちました。

 三代将軍源実朝。政子が実朝を出産したのは、貞暁が京都に旅立った3か月後だった。その数日後に、頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。(写真:Wikipedia)

[その1]はここまで。[その2]では、京都仁和寺で懸命に仏道修行に励む貞暁と、骨肉の争いにより次々と消えていく源氏一門。そして貞暁の後援者たちの死についてお話ししましょう。

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