幕末期の土佐藩主・山内容堂は本当に極悪人だったのか?その実像に迫る (3/4ページ)

Japaaan

山内家歴代当主が居住した高知城

この出来事があってこそ山内家、そして容堂の今があったわけです。

思想的には勤王派、立場的には佐幕派。この中途半端さのせいで、土佐藩内部でも佐幕派と勤皇派の対立を生み出すことになりました。

その結果、土佐藩は倒幕から明治維新までの流れの中で薩長に遅れをとる結果になったと言われています。

「差別意識」が抜け切らなかった容堂

次に、容堂の中にあった差別意識の問題です。

もともと、土佐のあたりの地域は、山内家以前は長宗我部氏が支配していました。

そのため長宗我部氏側の土着の侍は、山内家とその家臣がやってくると、身分の低い地位に追いやられます。

ここに、土佐藩独特の差別構造が生まれます。

山内家下屋敷長屋

この差別構造は山内家の中で先祖代々引き継がれ、容堂も土着の侍のことを蔑視していました。

坂本龍馬、武市半平太などの人物、伝記・小説・漫画でよく言われる「郷士」ですね。

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