幕末期の土佐藩主・山内容堂は本当に極悪人だったのか?その実像に迫る (2/4ページ)

Japaaan

若き日の後藤象二郎(Wikipediaより)

その優れた政治能力は土佐藩からやがては幕政にまで及び、「幕末四賢侯」の一人として今も名を馳せています。

さらに、実は「大政奉還」を建議したのも容堂です。

ではなぜ、彼は「極悪人」と見られるようになったり、日本史上でもなんとなく存在感の薄い人物になってしまったのでしょうか。

本稿では、それを探っていきます。

「中途半端」だった容堂

まず、山内容堂は「中途半端」な人物でした。彼の幕末期の思想的立ち位置が、今だったら中田カウスボタンにネタにされそうなポジションだったのです。

その中途半端ぶりを表す言葉に、「容堂は酔えば勤皇、覚めれば佐幕」というのがあります。

酔えば、というのは、容堂が大の酒好きだったことにちなんだものです。彼は朝廷を政治に参画させるべきだと考える「勤皇派」ではあったものの、土佐藩は徳川家にも強く恩がある立場であったため、「佐幕派」としての気持ちもありました。

なぜ、土佐藩は徳川家に恩義があったのでしょう?

時代は1600年、関ヶ原の戦いに遡ります。

もともと山内家は現在の静岡県にある掛川を治めていましたが、戦いでは最終的に徳川の側につき、功労の印として土佐を統治することになりました。

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