家康の支援を求め雪山だって越えていく!とにかく一本気だった戦国武将・佐々成政の逸話

Japaaan

家康の支援を求め雪山だって越えていく!とにかく一本気だった戦国武将・佐々成政の逸話

歴史好きの人であれば「さらさら越え」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは、戦国武将の「佐々成政(さっさなりまさ)」が冬に行った山越えのこと。

この行動には理由があるのですが、彼はそれ以外にも様々な逸話を残していました。一本気な性格だった佐々成政について見ていきたいと思います。

佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)Wikipediaより

織田軍のエリート!佐々成政とは?

佐々成政(さっさ・なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。彼の父の代から織田家に仕えており、成政自身も早くから信長に使えるようになります。手堅く出世をしていく、エリート家臣だったといいます。

信長の直属の親衛隊である「馬廻(うままわり)」として、護衛や伝令にあたりました。さらに、1567年には、馬廻のなかでも特に優秀な人が集められた「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭にもなりました。

なお、こちらも優秀なことで知られる前田利家は、「黒母衣衆」と対になる「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭でした。

才能は鉄砲に!

上記のように様々な場面で活躍した佐々成政ですが、彼が特にその才能を発揮したのは鉄砲においてでした。

鉄砲への知識・活用法などにおいては織田家のなかでもトップクラス。織田信長の鉄砲隊編成の中心となったのが成政でした。訓練を続け、集団の鉄砲の実力を磨いていき、その成果は数々の戦でも表れました。

時には主君にも諫言を

信長のよき家臣であった佐々成政ですが、彼は単に主君に従ってばかりの人物でもなかったようです。信長が浅井・朝倉軍を倒した後、酒宴で薄濃(はくだみ:頭蓋骨を金銀箔・金銀泥などで彩色)が披露されたときには、成政が信長に「人の道に外れている」と諫言したといいます。

家康の支援を求めて「さらさら越え」

順調に見える佐々成政の人生ですが、織田信長の死後は苦しめられます。信長の跡目争いで反秀吉側についていた成政。秀吉側が優勢となり、成政は居城(富山)を敵に囲まれてしまいます。

そこで、浜松にいる徳川家康の支援を求めるため、北アルプスを越えていきました。厳冬期にも関わらず北アルプスを選んだのは、敵の目を逃れるためだったといいます。

ちなみに、名前については「佐々のザラ峠越え」というものが転化し、「さらさら越え」と呼ばれるようになったといいます。この逸話は、江戸時代の浮世絵にも描かれているんですよ。

英雄八景之内 笹良越暮雪(歌川芳形 画)

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「家康の支援を求め雪山だって越えていく!とにかく一本気だった戦国武将・佐々成政の逸話」のページです。デイリーニュースオンラインは、さらさら越え佐々成政戦国武将戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧