【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3

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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3

「鎌倉殿」こと源頼朝と大進局(だいしんのつぼね)の間に生まれた貞暁(じょうぎょう)。頼朝の血を引く将軍候補ゆえに、頼朝の正室北条政子に危険視されます。貞暁はその身を守るため京都仁和寺で出家し、仏道修行に励みました。

最終回の今回は、政子の圧力で高野山へ移った貞暁。政子の2度目の上洛時に行われた面会で示された貞暁の壮絶な覚悟。そして、その後の貞暁と政子についてお話ししましょう。

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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その2

政子最初の上洛と貞暁の高野山退去

 仁和寺で仏道修行に励む貞暁。(イメージ)(写真:写真AC)

京都仁和寺で仏道修行に励んでいた貞暁ですが、1208(承元2)年になると突然高野山に活動の場を移します。高野山一心谷にある一心院の住持を務める行勝上人のもとに移ったのです。

貞暁はなぜ京都を去ったのでしょうか。その理由はこの年に行われた北条政子の初上洛にあったと考えられます。

『吾妻鏡』によると同年10月10日、政子は異母弟である北条時房とともに熊野詣のために鎌倉を出発、27日に京都に入っています。

『吾妻鏡』には、この上洛の目的は記されていません。歴史家の多くは政子が私的に熊野に参詣したのだと考えているようです。しかし、幕府の最高権力者である政子と重役の時房が上洛するからには、何らかの目的があったはずです。

貞暁の高野山転居の謎を解く鍵が、高野山に言い伝えとして残っていました。

鎌倉から逃れても、貞暁は北条義時に執拗に命を狙われていた。義時の討手が迫ったので、急いで高野山一心院に逃れた。

おそらくこの伝承は真実と思われます。政子と時房は京都にいる貞暁と会い、時と場合によっては貞暁誅殺を企てていたのではないでしょうか。その計画を察知した貞暁は難を避けるために、仁和寺と縁のあった高野山一心院に身を移したのです。

 貞暁の命を狙っていたとされる北条義時。

では、政子はなぜ貞暁誅殺を企てたのでしょうか。その答えは1208(承元2)年当時の三代将軍源実朝の健康状態にあったと考えられます。元来病弱であった実朝ですが、この年は頻繁に重い病に見舞われ、時に命に係わることもあったようです。

実朝の健康悪化は、次の将軍をめぐる争いを引き起こしました。貞暁も自身が知らないうちにその渦に巻き込まれていたのです。

貞暁の母大進局の実家である伊達氏二代目の伊達為重は実朝が死去した場合に、貞暁を将軍職に付けようと密かに画策したと伝わります。しかし計画は幕府に露呈し、討手を逃れるために伊達一族は散り散りになったのです。

こうした状況を憂慮した政子は、熊野詣を口実に上洛しました。この上洛には、実朝にもしものことがあった時、貞暁という今後の憂いを断つという目的があったと考えて間違いないでしょう。

政子:頼朝公を征夷大将軍にまで引き上げたのは、北条家とこの私である。将軍は北条の血を引く者。そして、北条こそ幕政の中心に座ることができる唯一の御家人なのじゃ。

この当時の政子は、こうした信念を頑なに持ち続けていたと思われます。頼家の遺子公暁を実朝の養子にし、公卿の弟たち(栄実禅暁)は出家させました。彼らを実朝が亡くなった時に還俗させ、将軍職にと考えていたと考えられるのです。

 高野山一心谷の現在の風景。(写真:T.TAKANO)

政子の頼家遺児たちへの不信と心境の変化

 高野山壇上伽藍。(写真:T.TAKANO)

北条政子の初上洛をきっかけに高野山一心谷に転居した貞暁は、この地で世俗を離れ、行勝上人のもと一心不乱に仏道修行を続けていました。さらに、上人とともに、源平合戦で荒廃した高野山の堂塔伽藍の復興に務めていたのです。

そして、1217(建保)年5月7日、上人が87歳でこの世を去ると、貞暁は一心院を引き継ぎ、第二代院主となります。

この間、鎌倉では相変わらず、北条氏と有力御家人の対立が生じていました。1213(建暦3)年2月、信濃源氏の御家人泉親衡(いずみちかひら)が頼家の三男栄実(えいじつ・14歳)を擁立し、北条義時打倒の陰謀を画策します。

しかし、陰謀は密告され親衡は逐電、栄実は自害に追い込まれました。さらに、この事件に和田一族が関わっていたとされ、初代侍所別当を務めた和田義盛をはじめとする和田一族は滅び去ったのです。

 謀反の罪で滅ぼされた和田義盛。(写真:Wikipedia)

そうした不安定な状況の中、将軍実朝はますます和歌にのめり込んでいきます。生来の脆弱さもあってか正室信子との間には子供が誕生する気配はありませんでした。

この頃になると政子には大きな心境の変化が起こっていたのではないでしょうか。それは、将軍職には北条の血は必要としない。ただし幕府は北条家のみで支えていくという固い決意でした。

政子は実朝と後鳥羽上皇の良好な関係から、実朝に跡継ぎができない場合は後鳥羽院の皇子を将軍として迎えようと画策していたのです。

こうした政子の心境の変化は、栄実の謀反発覚はもちろん、公暁がいつまでも剃髪せず、その本心が掴めなかったことも原因であったと思われます。

政子:頼家の子たちに将軍を継がせようとは思わぬ。将軍には高貴な血を引く者を就かせ、北条が代々の執権となって盛り立てていくまでよ。

北条家の血にこだわる政子の凄まじいばかりの執念は、時代の流れとともに変化していったのです。

 父義時とともに北条氏の独占体制を築いた北条泰時。(写真:Wikipedia)

政子の再上洛と貞暁の凄まじい決意

 実朝と親交が厚かったとされる後鳥羽上皇。(写真:Wikipedia)

1218(健保6)年2月4日、北条政子が2度目の上洛を行います。初回同様、北条時房を供に熊野詣を兼ねていました。

しかし、政子上洛の本当の目的は実朝の後継者として、後鳥羽上皇の皇子頼仁親王を所望することでした。そのために、親王の養育者で権力者でもあった上皇の乳母藤原兼子と会談を重ね、その内諾を得たのです。

その上で政子は、高野山にいる貞暁に自分との面会を命じました。面会の目的は、頼朝の血筋として将軍家を継ぐことができる貞暁の意思確認であったのです。

 政子と北条氏の圧力に苦悩する貞暁。(イメージ)(写真:写真AC)

政子を避けていた貞暁ですが、政子の強い要望に応えざるを得ませんでした。当時の高野山は女人禁制の地です。面会は山麓天野に鎮座する高野山の守護神丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)で行われました。

政子:そなたが貞暁か。初めてお会いするが、元気でなによりです。

貞暁:こちらこそ初めての御目通り、うれしく思います。朝に晩に御台所様のご壮健と幕府の安泰をお祈りしておりました。

政子:私が亡き頼朝公と幕府を創設したのは、ひとえに武家の世を望んでのこと。ただ、そなたも知ってのとおり、将軍実朝には跡継ぎの子ができません。

貞暁:御台様の御働きとご心痛は、拙僧とて理解しております。

政子:ならば貞暁殿。源氏と武家の世を長く続けさせるために、還俗して鎌倉に戻っていただけぬか。

貞暁は高野山にいても、仁和寺から知らされる情報で都の状況は把握していました。政子が後鳥羽上皇の皇子を将軍として所望していること。その後援者として北条の権力をさらに大きなものにしたいこと。もし、自分が将軍職を望めば、それは政子の意に反することになり、それがどのような結果をもたらすかを熟知していたのです。

貞暁:何を仰せられます。拙僧は武家に戻るなど全く考えておりません。その証をこの場で御披露いたそう。

貞暁は政子との面会にあたり、頼朝から授けられた太刀を持参していました。突然その太刀を抜くと、止めるまもなく左目に突き刺し眼球を抉ったのです。

貞暁:このようになっては、もはや武家として戦場での働きは望めません。ご納得いただけないならば、もう片方の目も潰しましょうぞ。

政子:もうよい!見事な覚悟を拝見いたした。どうやら私の考えが間違っていたようです。そなたには申し訳ないことをした。どうぞ、仏道に御専心ください。

政子は貞暁の凄まじい決意を目の当たりにし、感服すると同時に今までの自分を恥じ心から詫びました。そして貞暁に、権力争いの末命を落としていった源氏・北条一門の菩提を弔うことを依頼したのです。

その後の貞暁と現存する三基の五輪塔

 高野山西室院に残る「源氏三代供養塔」。(写真:T.TAKANO))

貞暁と政子の面会からわずか1年後の1219(建保7)年1月27日、鎌倉幕府三代将軍源実朝は公卿に暗殺されました。

晩年の政子は貞暁に深く帰依したといわれます。1223(貞応2)年、貞暁は政子の援助で五坊寂静院を建て、幕府も貞暁を頼朝の血を引く「鎌倉法印」として崇敬しました。

貞暁もまた将軍家三代の菩提を弔うために三基の五輪塔を建て、46歳でこの世を去るまで源氏一門の鎮魂のために生涯を捧げたのです。

三基の五輪塔は現在「源氏三代五輪塔」として西室院境内の一画に現存しています。江戸時代の享保年間(1716~1736年)の高野山古絵図(西室院蔵)には四基の五輪塔が描かれ、頼朝公墓・頼家公墓・実朝公墓・二位尼墓(北条政子)と記されており、二位尼墓だけは所在が不明となっています。

三基の五輪塔はその形態から、鎌倉初期の同一期に建てられたものとされ、貞暁が建てた五輪塔と考えて差し支えないでしょう。

「源氏三代五輪塔」は誰もが拝観することができます。拝観希望の方はあらかじめ西室院に連絡のうえ、伺うようにしましょう。

 貞暁が政子の援助で建てた五坊寂静院。西室院と道を隔てた場所に建つ。(写真:T.TAKANO)

3回にわたり、源頼朝最後の男系男子・貞暁の波乱に満ちた人生を、政子との因縁を交えながらお話をしてきました。長い文章になりましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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