平安時代の人命、軽すぎ…重大事故の犠牲者を、貴族たちはどう見ていたのか?
よく「人の命は地球よりも重い」なんて言うように、どんな生き物でも一つしかない命が尊いことは言うまでもありません。
しかし、そんな価値観も(比較的)平和で豊かな現代ならではこその恩恵。かつては人間の価値にも優劣があり、庶民の命などロクすっぽ顧みられない時代もありました。
今回は平安時代、やんごとなき貴族たちの日記や古記録より、彼らが庶民の死についてどのように見ていたのかを紹介。
これまでの前フリからお察しの通りですが、改めて現代のありがたみを実感できることでしょう。
喪われた幼い命『日本紀略』によると、延喜15年(915年)5月6日の早朝、御所の淑景舎(しげいしゃ。桐壺)が倒壊。建物の近くにいた7歳の男児が下敷きになって死んでしまいました。
大地震が起きた訳でもなかろうに、ずいぶん老朽化していたのでしょう。子供の成長を祝う端午の節句の翌朝とあって、その痛ましさが際立ちます。
しかし、男児が死んだことについての記述はそれだけ。両親(もしいるなら)はじめ関係者が救護したとか悲しんだとか、そういうことには一切ふれていません。
当局が気にしていたのは、事故の影響により仁王経御読経(にんのうきょうおんどきょう)が中止となってしまったこと。何の功徳を願っていたかは存じませんが、身近で喪われた小さな命に対して、少しは心を動かされなかったのでしょうか。
また『九暦』によれば、天暦3年(949年)6月に陰陽寮(おんみょうりょう)で女童(めのわらわ)が井戸に落ちて死亡。
水を汲もうとしてうっかり落ちてしまったのか、あるいは誰かに突き落とされたのか。それとも殺された上で死体を叩きこまれたのか、そうした状況については一切不明のままです。
それもそのはず。当局にとって問題なのは、女童が死んでしまったことより、そのケガレ(死穢)によって物忌(ものいみ。謹慎≒業務停止)せねばならぬこと。
いつになったら物忌が明けて業務が再開できるのか、その日程調整に終始しています。
現代だと、施工現場で重傷者が発生したにもかかわらず「工期が迫ってるんだから、救護よりも作業を続けろ!」と煽り立てる責任者のような感覚でしょうか。
転落事故で大騒ぎ以上は子供の死亡事故でしたが、では大人の事故と言うと……。
時は流れて寛弘8年(1011年)10月。三条天皇(さんじょうてんのう。第67代)の即位式が行われました。このハレ舞台を一目拝もうと多数の見物客が押しかけた結果、橋の欄干(らんかん。手すり)が壊れて転落事故が発生します。
とうぜん負傷者が出て、現場はてんやわんやの大騒ぎとなりました。が、この時の様子を式典に参加していた藤原行成(ふじわらの ゆきなり)は『権記』にこう記しました。
「群衆の呼び叫ぶ声を聴いたけれども、たまたま心身の傾動はなかった(意訳)」
行成は式典で宣命(せんみょう。天皇陛下の命令書)を読み上げる大役を務めており、すぐそばで他人がどうなろうと、動揺してしまっては末代までの名折れというもの。
平常心で任務を全うした自分エライ!という達成感に満ちあふれていますが、いくら国家の重要行事とは言え、さすがに人格を疑ってしまいそうです。
また寛仁2年(1018年)4月には、内裏の昭陽舎(しょうようしゃ。梨壺)を造営していた大工が高所から転落して死亡。
せっかくのリニューアルにケチ(穢れ)がついては困る、あるいは物忌で工期が延びてはかなわんとばかり、当局はみんなに口止めします。
しかし人の口に戸は立てられぬもの、たちまち噂は広がってしまいました。あるいは誰も話していなくても、誰かが「あれ、あの人(死んだ大工)を見かけないな……」などと感づいたのかも知れません。
これは藤原実資(さねすけ)が日記『小右記』に綴った内容ですが、察するに事故の隠蔽よりも「昭陽舎が穢れてしまったではないか」と不満を洩らしているようです。
終わりに現代でも重大事故や不祥事について「なかったこと」にしようとする手合いは絶えないものの、人間の貴賤によって扱いが違った時代では、それがより顕著だったことがうかがえます。
今回紹介した以外にも、記録に残らぬ無数の人々が顧みられることなく世を去ったことでしょう。
思想や価値観は国や地域による違いを尊重するものの、人命の尊さだけは普遍の価値として共有したいものです。
※参考文献:
倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan