志村けん「アイーン」誕生秘話も!懐かしの昭和芸人一発ギャグは意外なきっかけで生まれた
一撃で場を盛り上げ、人々を笑顔にする、お笑い芸人の"ギャグ”。「歌は世につれ、世は歌につれ」などという言葉もあるが、ギャグも、まさに常に人々に求められ、時代とともに移り変わっていくもの。今回は、そんな爆笑の思い出を振り返っていこう。
まずは、ハナ肇とクレイジーキャッツ。1955年の結成後、ジャズ喫茶での音楽ギャグで人気を博し、音楽バラエティ『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)などへの出演をきっかけに、国民的人気グループとなった。
芸能史に詳しい放送作家の松田健次氏は、こう語る。
「まだ敗戦の影が残る時代に、明るいお笑いギャグで日本に活力を与えた存在でした」
伝説的なギャグとなったのは、植木等の「お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました!」だった。
「出番を間違えて出てきた植木が、咄嗟に放ったアドリブが大ウケ。以来、定番ギャグとなりました」(スポーツ紙演芸担当記者)
メンバーの谷啓にも「ガチョーン」がある。
「趣味の麻雀の中から生まれたギャグで、谷が牌をツモるときに発する声が起源とのことです」(前同)
CM前のオチなどに使われたが、前出の松田氏は「その一瞬の間が絶妙」と語る。続けて、「谷さんは、実力のあるトロンボーン奏者で、見る人、聞く人を引きつける間やリズムというのを、よくご存じだったんでしょう」
同時代には、初代・林家三平も“昭和の爆笑王”として大人気だった。
「ギャグと愛嬌のある仕草で畳み掛ける爆笑落語で大人気になりました。“こうやったら笑ってください”と言って、ゲンコツを額に当てるだけでドッと沸き、その後の“どうもすいません”で、さらに大爆笑ですから」(前出の記者)
高座を掛け持ちしながら、テレビやラジオの仕事を一日十数本こなす日々で、正月三が日だけで108本の番組に出演したという。
「生放送の番組で時間があまってしまい、カメラに向かって思わず言ったのが“どうもすいません”だったそうです。三平の父、七代目・林家正蔵が使っていた“どうもすみませんです”が元になっているともいわれていますね」(前同)
■1970年代に生まれた名作ギャグ
そして、70年代には、萩本欽一・坂上二郎のコント55号とザ・ドリフターズが、数々のギャグを生み出した。
コント55号は、萩本の「なんでそうなるの!」と、坂上の「飛びます! 飛びます!」が大ヒット。
「55号のコントは、一般市民役の坂上が、萩本ふんするおかしな人物に振り回されるパターンでした。アドリブだらけの萩本と、それに狼狽する坂上の姿が、なんとも面白かった」(同)
追い詰められて発せられる坂上のボケ。そんな中で生まれたのが“なんでそうなるの!”だった。
対するドリフは、アドリブに頼らず、徹底的に台本を練り込んで演じるコントで、55号に対抗。『8時だョ!全員集合』(TBS系)は長年にわたり、お笑い番組の王者として君臨した。
「加藤茶のギャグは“ちょっとだけヨ~、あんたも好きねぇ”など、下ネタのオンパレード。俗悪番組と言われました」(松田氏)
だが、子どもたちは、こぞって真似をした。
「子どもなりの反社会性の遊びだったんでしょう。この点こそがヒットの要因だと思います」(前同)
志村けんのギャグはというと、CMや人気歌手のパロディ、さらに「あんだ、バカヤロー!」「おこっちゃヤーヨ!」など、いかりや長介に対する反抗の意を示すものまで、幅広かった。
「今でも、じゃんけんの掛け声として一般的な“最初はグー”も、志村と仲本工事とのコント“ジャンケン決闘”から生まれたものです」(テレビ局関係者)
志村のギャグというと「アイーン」を思い浮かべる人が多いかもしれないが、
「もともと、“アイーン”というセリフはなく、バカ殿のコントの中で、家老役のいかりやを威嚇するポーズに過ぎませんでした。腕と顎を突き出すポーズは“おこっちゃヤーヨ!”から派生したもの」(松田氏)
では、このポーズに“アイーン”という言葉をあてたのは、誰だったのか。
「バッファロー吾郎Aです。それをナインティナインの岡村隆史が覚えていて、志村との共演時に披露したのを、志村が取り入れたんです」(テレビ局関係者)
志村のコミカルな動き、一つ一つがギャグそのものだということだろう。
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