「妊娠してる」と嘘までついて結婚。歌人・石川啄木を献身的に支えた妻 節子のエピソード
明治を代表する日本の歌人といえば、石川啄木(いしかわたくぼく)。おそらく誰しも名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
天才的な才能を持っていた石川啄木ですが、プライベートは無計画で浪費癖があるなど、短所も多く見られます。そんな彼を献身的に支えたのが、妻の石川節子でした。
今回は、そんな彼女のエピソードをいくつかご紹介します。
石川啄木の妻・節子ってどんな人?堀合節子(堀合は旧姓)は、1886年(明治19年)岩手県の士族・堀合忠操の長女として生まれました。家系は裕福で、育ちもよかったといいます。
ミッションスクールの私立盛岡女学校に在学中に、当時盛岡尋常中学校に通っていたひとつ年上の石川啄木と知り合います。
節子は音楽の才能もあり、また可愛らしい容姿をしていたといわれています。
啄木に夢中!相思相愛で結婚年齢が上がるにつれ、節子にも縁談の話が持ち上がります。しかし、そのときすでに節子は啄木に夢中。啄木は文学に熱中していましたが、そんな彼に詩集を送ったりしていました。
節子の応援のかいもあり、啄木は処女詩集「あこがれ」を出版します。啄木はまた、自身の日記に、節子との恋を“一生に一度の恋”と記しています。
こんな相思相愛の状態の二人。啄木は中学校を退学している(カンニングが理由といわれています)ため、節子の両親は結婚に反対します。
しかし、そんな反対を押し切って節子は啄木と結婚します。なんと、啄木と結婚するために、父親に「啄木との子を妊娠している」と嘘までついたとか。
結婚式はなんと啄木不在!なんとか結婚が成立した啄木と節子ですが、結婚式でトラブルが起こります。
そのとき啄木は「詩集を出版したい」と東京に行っていたのですが、結婚式の行われる盛岡に戻る途中、「友人に会いに行く」と言って突如仙台で途中下車。結婚式には間に合わず、挙式は啄木不在で執り行われました。
献身的な愛で啄木を支えた節子結婚式のエピソードに加え、浪費癖もあった啄木。そんな彼との結婚を節子の周辺は非常に心配しました。それでも節子は啄木を愛し、献身的に支えました。
啄木の素質も、節子の愛によってさらに輝きを増したといわれています。しかし、病魔が啄木を襲います。
1911年(明治44年)に啄木は肺結核になり、翌年に亡くなりました。1913年(大正2年)に、啄木のあとを追うように節子も結核でこの世を去りました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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