17ヶ所もの銃弾を浴び討死!政治家・武人としても超有能だった武田四天王「山県昌景」の生涯 (2/3ページ)

Japaaan

甲府駅前・武田信玄の銅像

しかし、嫡男の義信がこれに反対(彼は今川義元の娘を正室としていました)。二人は仲違いし、義信は信玄追放のクーデターを計画しました。

この企てを察知したのが昌景です。彼の密告でクーデターは阻止され、関係者は処刑・幽閉・死亡しました。

その後、昌景は信玄から、譜代家老の家柄である「山県氏」の姓を継ぐよう計らわれ、ここに「山県昌景」が誕生したのです。

その後、「赤備え」と呼ばれた昌景の隊は各地の戦場で活躍し、周辺諸国から畏怖されるようになります。

こうして、昌景は武人として活躍する一方、永禄10(1567)年には裁判・検断権(警察権)の管掌、諸役免許や参陣命令、寺社支配などを司る職に任命されています。また、外交面では会津の蘆名氏や徳川家康との同盟締結に尽力しました。

昌景の死と「赤備え」のその後

さて同年12月、信玄は駿河へ侵攻し、わずか7日間で制圧します。

この時、家康も密約を守って遠江へ侵攻しますが、ここで昌景は家康との約定を破り、大井川を超えて遠江へと侵攻します。そして両者の兵が鉢合わせして小競り合いが発生。これが原因で、武田・徳川の同盟は決裂しました。

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