語り継がれる奇襲「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった?史実とは違う、一ノ谷の戦い

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語り継がれる奇襲「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった?史実とは違う、一ノ谷の戦い

源氏が平家を滅ぼした「源平の合戦」で、源義経(みなもとのよしつね)は天才軍略家ともいえるくらいの知略に恵まれた武将ととして描かれています。

平家の本拠地である屋島を奪った際の奇襲作戦や、「壇ノ浦の合戦」での”八艘飛び”などの逸話が今も生き生きと語られています。

そんなエピソードの中でも特に有名なのが、「一ノ谷の戦い」での「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」。

鵯越の逆落とし

時は1184(寿永3)年の頃、一ノ谷(現・神戸市須磨区)に陣を築いていた平家を源氏が攻めたてました。

北側には険しい六甲の山々、東側は鵯越という急峻な崖、南側は海に面した地形という、外側から攻め込むにはかなり厳しい難攻不落の要害でした。

まして、海上戦を得意とする平家との闘い、南側からの侵入はあり得ない選択で、源氏はなす術もありませんでした。

そんな状況を破ったのが源義経。精兵70騎を率いて鵯越の崖を真っ逆さまに駆け下り、城に火をかけるという奇襲作戦に出たのです。

思わぬ侵入者に平家の本陣は総崩れになり、源氏が見事な勝利を収めました。

以上が、有名な鵯越のエピソードですが、この話が実はフィクションだった可能性が出てきました。

なぜならば、鵯越の場所が、現在明らかになっている平家の陣から8キロメートルも離れており、そう考えたときにこの距離感ではとても奇襲になりそうにありません。

しかも、九条兼実(くじうかねざね)が記した日記『玉葉』で述べられている合戦の様子から、奇襲したのは義経本人ではなく、別動隊の多田行綱(ただゆきつな)だったのではないかという説もあります。

多田行綱は、摂津国多田荘(兵庫県川西市など)を本拠としていた源氏の武将の一人です。以上のように考えると、義経の「鵯越の逆落とし」のエピソードは、後世に脚色されたかもしれないのです。

尤もこうした奇襲作戦など行われなくても、源氏は平家に十分勝てた可能性があります。なぜなら、源氏が攻め入る前日に、当時平家と対立していた後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、

「和平交渉尾を行うための使者を派遣するのでそれまで待つように。同様の趣旨を源氏側にも伝えてある」

といった内容の書状を平家の陣に届けていたのでした。

この書状を受け取った平家の陣のものたちは、ひとまず安心し、警戒を解いていたところ、源氏が攻め込んできたというわけです。

この話が事実なら、源氏の勝利は義経の紀州ではなく、後白河法皇のおかげということになります。

参考

清水由美子 『『平家物語』における多田行綱 ~「裏切り者」と言われた男の素顔~』「歴史叙述と文学」(2016 国文学資料館)

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