この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:後編

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この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:後編

前編のあらすじ

北条義時(演:小栗旬)と八重(演:新垣結衣)の長男として誕生した北条泰時(演:坂口健太郎)。

後鳥羽上皇(演:尾上松也)との最終決戦「承久の乱」で総大将を務め、勝利をつかんだ泰時は、父の遺業を受け継いで「武士の世」を切り拓いていきます。

その集大成とも言えるのが、後世に武家法の原点となる「御成敗式目」の制定でした。

前編の記事

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編

武士でも解る公正な法律を…俺たちの「御成敗式目」が持つ歴史的な意味

かくして一大改革を遂げた鎌倉幕府。と言ってもとりさばく政務のメインは、昔とそんなに変わらない御家人同士の紛争仲裁や生活上の課題解決など。頼朝時代からの先例を基に判断・解決していったものの、やがてそれにも限界が来ます。

「よし。古来の律令をたたき台に、我ら武士の生活実態に即した新ルールを策定しよう!」

「「「異議なし!」」」

という事で、貞永元年(1232年)8月10日に歴史の授業でもおなじみの御成敗式目を制定。当初は単に「式条」「式目」などと呼ばれていたのが、やがて訴訟の基準となったため「御成敗式目」または定められた元号により「貞永式目」と呼ばれました。

武士や庶民たちにも解りやすい、公平な法律を(イメージ)

「これまで訴訟と言えば、同じ案件であっても強い者が勝訴し、弱い者が敗訴するものとされてきた。しかしそういう不公平をなくし、身分の貴賤にかかわらず公正な訴訟が行われなければ、力を驕って法を踏みにじる者が絶えないだろう。
そこで此度この式目を定めた。都人らが見れば『モノも知らぬ東夷(あづまゑびす。東国の野蛮人)どもが法律ごっこか』など笑うやも知れず、また『すでに優れた律令があるのに、その劣化コピーなど作って得意顔とは笑止千万』などと眉を顰めるかも知れない。
しかし地方で都の律令を知る者、理解する者は少ない。そんな状態で律令を基準に武士たちを処罰するのは、獣を罠にかけるようなもので、安心して暮らせないではないか。
だから此度の式目は、漢字も知らぬような田舎武士でもちゃんと読めて理解できるように書いた。
君臣の絆を大切にし、親子の絆を大切にし、正直で純粋な人の心を大切にし……土民らも安心して暮らせるよう『人間の道理』に基づいて作ったものなのだ」

……これは泰時の弟(義時の三男)で、六波羅探題として京都に赴任していた北条重時(しげとき)に向けた手紙を意訳したもの。

法律に携わる者であれば誰もが理想とするごくシンプルな道理、その恩恵を身分に貴賤にかかわらず誰もが享受できることを願って定められた御成敗式目。

それまでの律令が中国大陸からの輸入であり、明治時代から現代までの各種法律が欧米法学の輸入であるのに対して、御成敗式目は武士を中心とした日本社会の文化風習に即して独自に生み出されています。

これは日本の法制史上、非常に稀有な事例として是非とも覚えておいて欲しいです。

エピローグ

他にも京都のような鎌倉大番役(かまくらおおばんやく。全国各地の武士たちに交代で警固させる)や四角四境祭(しかくしきょうさい。鎌倉の四方を厄祓い)を導入したり、和賀江嶋(わかえじま。鎌倉沖の人工島)に港を整備して日宋貿易を盛んにしたりなど大活躍した泰時。

現代の和賀江嶋。画像:Wikipedia(撮影:通氏)

仁政を心がけた一方で、院政期以来対応に苦慮してきた延暦寺や興福寺など僧兵勢力には毅然とした態度で臨み、武力で鎮圧することもしばしば。

延応元年(1239年)12月5日は亡父の盟友であった三浦義村が病没、仁治元年(1240年)には叔父の時房も亡くなり、ついに執権として独り立ちすることに。

仁治2年(1241年)、泰時は孫の北条経時(つねとき。亡き長男・時氏の子)と甥の北条実時(さねとき。弟・北条実泰の子)はじめ、評定衆らを招集。

自分の後継者に経時を指名し、実時はじめ評定衆らにその補佐を依頼しました。可愛い孫に自分と同じ苦労(後継者争い)をさせたくなかったのでしょう。

泰時の後継者として鎌倉幕府の第4代執権となった北条経時(画像:Wikipedia)

また朝廷内部にも鎌倉の勢力を食いこませるべく、四条天皇(しじょうてんのう。第87代)の崩御に際して御嵯峨天皇(ごさがてんのう。第88代)を奉戴。その外戚である土御門定通(つちみかど さだみち。泰時の妹婿)を通じて朝廷に影響力を及ぼします。

経時のために打てる手は打ち切った仁治3年(1242年)6月15日、泰時は還暦(60歳)でこの世を去ったのでした。執権職は経時によって継承され、鎌倉は新たな時代を迎えるのでした。

終わりに

以上、鎌倉幕府の第3代執権となった北条泰時の生涯を駆け足でたどってきました。

頼朝や義時以前は御家人・武士たちの権益を主張して朝廷や貴族、寺社などの旧勢力と対立していた鎌倉幕府。

それが承久の乱以後、政治の主導権を握ってからは新旧勢力の対立を調停する権力として基盤を築き上げることに成功(もちろん、朝廷とその信任を受けた「鎌倉殿」の権威を前提とすることは論を俟ちません)。

『英雄百首』より、北条泰時

父祖の天下草創を継承し、北条の執権体制を盤石なものとした泰時は名執権として高く評価されています。

そんな泰時の墓所は鎌倉・常楽寺(鎌倉市大船)にあり、今も人々の暮らしを見守っていることでしょう。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどのような活躍を魅せてくれるのか、今から楽しみですね!

【完】

※参考文献:

上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1988年10月 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版、2021年9月 高橋慎一朗『武士の掟 「道」をめぐる鎌倉・戦国武士たちのもうひとつの戦い』新人物往来社、2012年2月 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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