鎌倉が大炎上した建久2年の大火災、なんと源頼朝が真犯人との説を紹介【鎌倉殿の13人】 (3/4ページ)
……小町大路とは現代の小町通りとは異なって若宮大路の東側を並走。そのまま材木座海岸を経て三浦方面へと伸びていました。
民家数十軒を焼いて八幡宮へ延焼したとのことですから、当時の邸宅がどのように建っていたかにもよりますが、だいたい日蓮辻説法跡(小町二丁目)あたりが出火点でしょうか。
この火災が予言通りに起こったことから「実は都市整備を計画した頼朝かその重臣たちが、邪魔な家屋などを焼き払わせたのでは」という説(石井清文「建久二年三月鎌倉大火と源頼朝」)が提唱されたのです。
さすがに無理があるのでは……?しかし、紹介しておいて何ですが、その仮説はさすがに無理があるのではないでしょうか。
『吾妻鏡』にある通り当日は南風が強く(現代でも鎌倉はたいてい南から強く海風が吹く)ため、火など放とうものならたちまち燃え広がります。
焼き畑農業みたいに火勢を制御できず、どこまでも燃え広がってしまうリスクを考えると、軽々にできることではありません。
じっさい源氏の氏神である鶴岡八幡宮まで焼けてしまっており、そんな罰当たりなことを意図的に行うとは考えにくいものです。
数百年後の戦国時代、鎌倉へ攻め込んで来た房総半島の里見一族(源氏)が失火によって鶴岡八幡宮を焼いてしまった際「氏神様に畏れ多いことを……」と、兵を引き上げてしまうほどでした。