鎌倉が大炎上した建久2年の大火災、なんと源頼朝が真犯人との説を紹介【鎌倉殿の13人】 (2/4ページ)

Japaaan

……しかし予言は的中し、その晩に火災は発生します。

八幡様まで灰燼に帰してしまった(イメージ)

建久二年三月小四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衛門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋數十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘縄宅。依炎上事也。

※『吾妻鏡』建久2年(1191年)3月4日条

【意訳】曇り、激しい南風が吹いていた。午前2時ごろに小町大路あたりで出火。北条義時村上基国比企能員比企朝宗佐々木盛綱一品房昌寛仁田忠常工藤行光佐貫広剛はじめ民家数十軒が全焼。
さらに延焼して鶴岡八幡宮の五重塔や社殿、回廊などもことごとく焼け落ち、頼朝の御所も焼失。昨晩に広田邦房が予言した通りとなった。
午前4時ごろになって、頼朝は甘縄にある安達盛長の家へ避難したのであった。

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