腹黒、虚言、そして内部粛清…主家を滅亡へと導いた稀代の奸臣・久武親直

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腹黒、虚言、そして内部粛清…主家を滅亡へと導いた稀代の奸臣・久武親直

名将なれど「腹黒い」?

安土桃山時代の戦国武将で、久武親直(ひさたけ・ちかなお)という人物がいました。

彼は長宗我部氏の家臣で、主君の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)は、もともとは親直の兄である久武親信(ちかのぶ)を重用していました。親信は誠実な人柄だったようです。

長曾我部元親(Wikipediaより)

この、兄の親信は、弟の親直について「腹黒い男だから取り立てぬよう」と、主君に忠告していたそうです。現在の視点から見ると、これがいわば「予言」となって長宗我部氏は滅亡の道を歩んでいくことになります。

兄の親信が戦死したのは、1579(天正7)年の西伊予の西園寺氏攻めの最中のことでした。主君の長宗我部元親は、先の忠告があったにも関わらず、弟の親直を久武家の当主とします。

家督を継いだ親直は、武将としての有能ぶりを発揮します。兄が成しえなかった西園寺氏の攻略を5年かけて果たし、さらに東伊予の金子氏も臣従。伊予平定をやってのけたのです。

また1582(天正10)年の中富川の戦いでは阿波・讃岐の領主と戦い、参謀として活躍します。この勝利の勢いに乗って、彼は1585(天正13)年には四国全土を手中に収めました。

ところが、ここで豊臣秀吉が登場します。

後継者問題で立ち込める暗雲

四国全土を支配してからわずか数カ月後、秀吉が10万余りの大軍で四国へ出兵。長宗我部元親は敗戦を重ねて、3カ月ほどで降伏しました。彼は秀吉に臣従し、土佐一国のみを収める形になります。

この折、長宗我部家内では別の問題が勃発していました。後継者問題です。元親の嫡男で、将来を有望視されていた信親が1587(天正14)年の戸次川の戦いで戦死したのでした。

そこで、元親は四男の千熊丸(盛親)を後継者に指名します。そのために、信親の娘(つまり元親の孫)を娶らせたりもしました。

長曾我部盛親(Wikipediaより)

しかし、盛親の2人の兄はまだ存命です。このことを理由に、家臣の吉良親実(元親の弟である吉良親貞の子で、元親の甥にあたる)と、やはり長宗我部家の親戚にあたる比江山親興が反対します。

それでも、盛親の2人の兄は既に他家の養子となっていたこともあり、後継者は盛親ということで落ち着きました。

この後継者問題に、久武親直が関係してきます。上記の後継者問題はいわばお家騒動ですが、この騒動を理由に、先述した吉良親実と比江山親興の2人を処刑させたのです。親直は、元親に讒言を用いて彼らを陥れたのでした。

吉良・比江山の2人は、親直にとっては政敵にあたる人物でした。親直はお家騒動にかこつけて、政敵を滅ぼしたのです。

親直の讒言を信じてしまう主君も主君ですが、長宗我部元親は、信親の死後は完全に覇気を失って狭量な性格になっていたといいます。

関ヶ原の戦いと長宗我部家の凋落

さて、その後の関ケ原の戦いで、長宗我部盛親は西軍に参加して敗戦します。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)・関ケ原町歴史民俗資料館所蔵関ヶ原合戦図屏風(Wikipediaより)

この時、徹底抗戦を主張する門閥派に対し、久武親直は「家康に恭順して臣従工作を進めるべきだ」と進言します。

しかしこの時、彼は盛親に、兄である津野親忠を殺害することも勧めています。そして家督を奪われることを恐れた盛親はその通りにしてしまい、「兄殺し」というタブーを破ったとして家康に改易処分の理由を与える結果になりました。

こうして長宗我部家は凋落・滅亡への道を進んでいきます。家臣の多くは盛親と共に大坂の陣で戦死するか、土佐の新領主である山内一豊によって粛清されて消えていきました。生き残った者も、悪名高い土佐藩の身分制度によって苦しめられることになります。

このように、久武親直による讒言と内部粛清の強行によって、長宗我部は滅亡したとされています。彼が現在も「稀代の奸臣」と呼ばれているゆえんです。

ちなみに彼は、その後は肥後で加藤清正に仕え、100万石を与えられました。

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