教養ある名将なれど悪役扱い。武将・梶原景時の不遇な最期と後世の評価【鎌倉殿の13人】 (2/3ページ)

Japaaan

源義経(Wikipediaより)

屋島の平家討伐の軍議で、景時は戦いで使う船について「いざという時に後ろにも漕ぎ進められるよう、船の前方にも櫓を取り付けるべき」と主張します。

一方、義経は初めから逃げることを考える後ろ向きな姿勢を嫌い、景時の話を聞こうとしません。

結果、義経は暴風の中たった5艘の船で出航し、予定よりも早く屋島の平家討伐を完了します。万全を期した景時が到着したのは、すべてが終わったあとでした。

この時、景時は義経から「六日の菖蒲」と嘲笑されたといわれています。六日の菖蒲とは「時期が遅くては役に立たない」ことの譬えで、五月五日の端午の節句に用いる菖蒲は六日にあっても不要になってしまうことが由来です。

また壇ノ浦の戦いでは、景時は先陣を志願しました。しかし義経はこれを退け自ら先陣を切ります。総大将が先陣を切ることに反対する景時はここでも義経と対立。争いの一歩手前にまで及んでしまったようです。

恨みを買いやすかった?

義経と何度も対立して不満を募らせた景時は、義経を陥れようと頼朝に讒言したといわれています。

「教養ある名将なれど悪役扱い。武将・梶原景時の不遇な最期と後世の評価【鎌倉殿の13人】」のページです。デイリーニュースオンラインは、鎌倉殿の13人梶原景時鎌倉時代戦国武将カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る