平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】 (2/3ページ)

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一方、平家は清盛が出家した際に延暦寺に世話になっていた縁もあり、延暦寺と友好な関係を保っていました。

比叡山延暦寺横川中堂

さらに、朝廷内でも後白河上皇は院の近臣を、清盛は平家一門を、それぞれ朝廷の要職に就けようとして主導権争いをしていました。

しかし、高倉天皇の母であり清盛の義理の妹である平滋子が巧みに後白河上皇と清盛の仲介役となり、表面上は良好な関係を保っていたのです。

滋子は、その美貌が後白河上皇の目に止まり高倉天皇を授かりましたが、肝が据わったとても賢い女性でもあり、絶妙な調整能力を発揮していました。そのおかげで、後白河上皇と清盛の間の関係は上手く調整されていたのです。

寺を焼いたことが発端

ところが、1176年に滋子が亡くなると次第に両者の関係は悪化していきます。そして翌年の1177年に起きた事件「鹿ケ谷の陰謀」により両者の対立が決定的となりました。

事の発端は、加賀の国事を務めていた藤原師高・師経の兄弟が天台宗の寺である白山寺を焼いてしまったことでした。

これに対して、延暦寺の座主である明雲が激怒。後白河上皇に師高・師経兄弟を処罰するよう迫ります。

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