江戸城を襲撃!天皇を脅迫!?軍学者・由井正雪による恐怖のテロ未遂事件「慶安の変」はなぜ起きたのか

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江戸城を襲撃!天皇を脅迫!?軍学者・由井正雪による恐怖のテロ未遂事件「慶安の変」はなぜ起きたのか

徳川幕府の武断政治

江戸時代前期の慶安4(1651)年に起きた「慶安の変」という事件がありました。これは軍学者・由井正雪が中心となって幕府転覆計画が企てられたもので、陰謀は未然に発覚し関係者が処罰されました。

江戸城の巽櫓(桜田二重櫓)

今で言えばテロ未遂事件です。

この事件が起きた背景には、江戸幕府による大名家に対するきびしい統制がありました。

当時はまだ、関ケ原の戦いの後で徳川家に服属した外様大名達が多く残っていたため、幕府はこれらの大名達が反抗しないように力で押さえ込もうとしていました。

「武家諸法度」という、大名達の行動を厳しく規定した法律を作り、少しでも違反した大名がいたら次々と改易や減封の処分を科していきました。この政治手法は武断政治と呼ばれています。

武家諸法度には、「城の修築などは一回幕府に願い出て許可をもらわなければならない」、「勝手に大名同士で婚姻してはならない」、「大名は江戸に1年おきに常駐しなければならない(参勤交代)」、などのさまざまな規定があり、これらに少しでも違反したら厳しい処分が下されました。

これにより、熊本藩の加藤忠広(加藤清正の息子)や広島藩の福島正則などの有力な外様大名が改易処分となっています。

福島正則(Wikipediaより)

また、末期養子(跡継ぎのいない大名が死ぬ直前に養子をもらうこと)が禁止されていたため、当主が死亡した時に跡継ぎが決まっていない場合は大名家の存続が許されていませんでした。

大名が改易されると、その大名に仕えていた武士は給料である禄(ろく)を失い浪人となってしまいます。

治安の悪化と由井正雪の憂い

この頃になると、関ヶ原の戦いや大坂の陣で発生した浪人に加えて、さらに改易処分により職を失った武士達が浪人となり江戸市中に大量にあふれていました。

しかし、幕府は浪人たちに対して生活の保障や保護等の対策をしなかったため、一部の寺子屋や道場の師範となり収入を得る者を除いて、大半の浪人達は仕事もなく生活に困るようになっていきます。

生きていくために武士の誇りも捨てて渡世人となったり、盗賊になる者さえいました。

江戸市中の治安は悪くなり、社会にも不穏な空気が漂い始めます。

そんな世の中の状況を憂いたのが軍学者である由井正雪でした。

由井正雪は駿府(静岡県)の生まれと言われており、駿府から江戸に移住し兵法を教える塾を開きます。

この塾は一躍江戸中で評判となり、最盛期には3千人もの門下生がいる一大塾となりました。

有名人となった正雪には幕府や各地の大名から講義の依頼や仕官の話がたくさん来ていましたが、正雪は幕府や大名へ仕官する道は選びませんでした。

塾へ集まってくる浪人たちを見て、これらの人達を救うために幕府を倒して世の中を変えるしかないと考えるようになっていたからです。

そんな中、慶安4(1651)年に武断政治を推進していた3代将軍徳川家光がこの世を去ります。

徳川家光(Wikipediaより)

後を継いだ4代将軍の徳川家綱は幼少でまだ11歳。正雪はチャンスが来たと思ったのでしょう、ここで幕府転覆計画を立案し始めます。

粗雑な計画の失敗

その計画とはこうです。まず、宝蔵院流の槍の達人・丸橋忠弥に江戸城を襲撃させ、火薬庫を爆破させて火事を起こして江戸の町を火の海にします。

初代市川左團次の丸橋忠弥(Wikipediaより)

その混乱を突いて将軍を拉致、そして京都では正雪が天皇を脅して幕府討伐の勅命を出させて、官軍となった軍勢で地方を制圧していくというものでした。

ただこの計画は、軍学者が立案したものにしてはかなり雑で、情報もすぐに漏れました。味方であったはずの浪人の一人が幕府にこの計画を密告してしまったのです。

そして、この陰謀に加担した浪人たちは全員捕縛され処刑されてしまいます。正雪自身も駿府で隠れているところを幕府の役人に見つかり、自害しました。

幕府首脳はこの事件に対して事の深刻さに気づきます。これまでのような武断政治をしていては、治安が悪くなり再び反乱が起きてしまうと考えるようになります。

そして、これ以上浪人を増やさないようにするため、これまでの武断政治から文治政治へと大きく政治方針を変えていきます。

末期養子に関する規則を緩和して、後継者が決まっていなくても藩が存続できるようにしたり、浪人も安定した生活ができるように考慮した政策を出したりと、幕府は動き始めます。

さらに、この頃になると幕府の権力も安定し武術などに力を入れる必要がなくなってきていたため、学問を積極的に奨励し始めます。

慶安の変は、武断政治から文治政治へ幕府の方針が転換していくきっかけとなったのです。

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