地獄絵図の虐殺!日本史上稀に見る鬼畜戦略、豊臣秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは? (3/4ページ)
三木城の合戦でも効果を発揮した、付城による包囲作戦をここでも採用したのです。
そして、本丸の東側に本陣を置き、鳥取城を囲むように70ヵ所以上の陣城を配置。蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網を敷きます。
さらに、攻略した周辺の支城にも兵を入れて陸路や海路を完全封鎖し、外部との連絡手段と補給経路を完全に遮断しました。
経家も早い段階でこの危機に気づき、外部に食糧援助を要請しましたが、陸路・海路ともに阻まれており、兵糧を届ける手段はもはやありませんでした。
籠城戦+持久戦VS包囲戦+兵糧攻め、という構図です。
「飢え殺し」の結末秀吉の、徹底的な兵糧攻めはまだ終わりません。彼は鳥取城周辺の村々を襲い、2千人以上の領民を鳥取城内に逃げ込ませ、城内の食糧消費を加速させる作戦に出ました。
これが功を奏し、籠城戦が始まってからわずか1か月で兵糧が尽きてしまいました。その後は、3日か5日に一度、雑兵が城柵まで出てきて木や草の葉を取り、それを食糧として飢えを凌ぐようになります。
しかし、数週間後には城内の家畜や植物も枯渇し、4か月が経った頃には餓死者が続出。詳細はご想像にお任せしますが、この頃の城内は地獄絵図だったようです。
このような状況に耐えられなくなった経家は、秀吉への降伏を決意。経家自身と主戦派の旧山名氏重臣たちの切腹を条件に、兵士や民衆の助命を嘆願しました。
秀吉は経家の命は助けたかったようで、旧山名氏重臣の切腹を降伏条件として提示します。