地獄絵図の虐殺!日本史上稀に見る鬼畜戦略、豊臣秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは? (4/4ページ)
しかし経家の意思は固く、結果的には秀吉側が折れて経家と旧山名氏重臣らの自決とともに鳥取城は開城されました。
こうして戦いは終わりましたが、悲劇はまだ終わっていませんでした。開城後、秀吉は空腹の兵士らに食糧を振る舞いますが、空腹のあまり勢いにまかせて食べた人々が次々と死亡し、生存者の過半数が命を落としたと言われています。
餓死寸前の人に、いきなり普通の食料を与えてはいけないのです。
ちゃんと振る舞う分の食糧を準備していたことから見ても、おそらく秀吉は「飢え殺し」そのものを目的にしていたわけではないのでしょう。城さえ落とせれば、あえて人々を飢えさせる必要はなかったはずです。
しかし経家たちが意地を見せたことで、かえって被害は拡大したのでした。彼が決死の思いで助けた人たちも、その多くが命を落とし、こうして「鳥取の飢え殺し」は、日本史上稀に見る鬼畜戦略として名を残すことになったのです。
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