文武両道に優れた徳川家康の寵臣・石川丈山は朝廷へのスパイ役だったのか?

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文武両道に優れた徳川家康の寵臣・石川丈山は朝廷へのスパイ役だったのか?

江戸初期を代表する文化人・石川丈山(いしかわじょうざん)。

徳川家康の寵臣(ちょうしん)でありながら、京都洛北一乗寺に隠遁した目的は、朝廷へのスパイ役であったのか?

そんな石川丈山の生涯をご紹介しましょう。

石川丈山とはどのような人物か

石川丈山は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将で文人です。丈山は、1583(天正11)年、徳川家に仕える譜代の武士・石川信定の子として三河で生まれました。

後に徳川家康の近侍となり、その忠勤ぶりから大きな信頼を得ます。しかし、1615(慶長20)年の大坂夏の陣で戦功を競うあまり、先駆けの軍律違反を起こしてしまいました。

家康から厳しい叱責を受けた丈山は浪人となり、京都妙心寺に隠棲します。その後、有名な儒者・藤原惺窩に師事し儒学を学ぶと、文武両道に優れた丈山は多くの大名から仕官を誘われます。

武将としても文化人としても第一級の人物とされた石川丈山。(写真:Wikipedia)

しかし、仕官を望まなかった丈山はこうした誘いを断りますが、母の病気のために安芸広島の浅野家に仕官しました。13年後、母が死去すると引退を願い出るものの許されず、半ば強引に広島を退去し、京での隠棲を開始。

そして、1641(寛永18)年、洛北の一乗寺村に凹凸窠(詩仙堂)を建て、終の棲家に定めます。

丈山は、ここで隠者の生活を送り、鷹峯の本阿弥光悦や小堀遠州ら当代の文化人たちと交わりながら、90歳の生涯を閉じるまで暮らしました。

丈山は、江戸初期の漢詩を代表する人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通し、煎茶の祖ともいわれるほど、各道において第一級の文化人だったのです。

丈山が隠棲した凹凸窠(詩仙堂)とは

石川丈山が隠棲した山荘・凹凸窠跡の寺院で、1階の詩仙の間・至楽巣・躍淵軒の3室と2階の嘯月楼からなります。

作庭の名手丈山の手による庭は、白砂に躑躅をあしらった四季折々に美しい唐様庭園でも有名。詩仙の間に座し、庭を眺めるのもよし、庭園に降りてゆっくり散策するのもおすすめです。

詩仙堂の庭園。(写真:T.TAKANO)

丈山はなぜ詩仙堂を構えたのか

江戸初期を代表する文化人の丈山だが、実は昔から幕府のスパイ説が囁かれていました。

この時期、幕府と朝廷は大変な緊張関係にあったのです。2代将軍徳川秀忠は、『禁中並公家諸法度』を制定し、朝廷を締め付け、紫衣事件などで圧迫しました。

朝廷を圧迫する政策を行った徳川秀忠。(写真:Wikipedia)

これに対し、後水尾天皇は幕府に諮ることなく1629(寛永6)年に興子内親王に譲位します。興子内親王の母は秀忠の娘和子が入内して生んだ内親王なので、徳川の血を引く天皇が誕生したかに見えますが、実はそこに後水尾天皇の意図があったのです。

幕府の干渉に対し徹底抗戦を行った後水尾上皇。(写真:Wikipedia)

それは、女帝は生涯独身であるのが習わしであり、徳川の血が代々皇統に流れるのを防いだことになるのです。この後水尾天皇の譲位に秀忠は激怒したと伝わります。

詩仙堂の位置は、後水尾天皇が造った修学院離宮がすぐ北にあり、京都所司代の板倉勝宗もたびたび詩仙堂を訪れています。

徳川幕府の創設期であり、朝廷との緊張関係が続く折から、丈山は京都の見張り役、つまり幕府側のスパイをしていたのではないかといわれているのです。物見櫓のような小楼・嘯月楼からは洛中一帯を見下ろせるため、この櫓をして狼煙台とする説もあります。

詩仙堂に建つ小楼・嘯月楼。(写真:T.TAKANO)

後水尾天皇(譲位して上皇)ら朝廷側も丈山を招こうとした事実もありました。いずれにせよ、武将としても文化人としてもずば抜けた才能を有していた丈山は、隠棲した後も幕府・朝廷双方に必要とされた人物であったのです。

今回は、石川丈山についてご紹介しました。京都に行く機会がありましたらぜひ詩仙堂を訪ねてください。そこには今も丈山の息吹が感じられます。

※参考文献
『京都ぶらり歴史探訪ガイド~今昔ウォーキング~』 メイツユニバーサルコンテンツ 2022年2月25日発刊 京あゆみ研究会著(高野晃彰・執筆編集)

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