実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】

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実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」皆さんも観ていますか?

昔から平安・鎌倉期ファンの方はもちろん、そうでない方も個性的なキャラクターや豪華キャスト陣が好評を呼んでおり、今から観始めても十分に楽しめるでしょう。

多彩な登場人物たちの中で、筆者の個人的な「推し」は梶原景時(演:中村獅童)。亡き源頼朝(演:大泉洋)の懐刀として陰に陽に、時には汚れ役も厭わずに活躍してきました。

「梶原景時」に関する記事はこちら

石橋山の敗戦で、窮地の頼朝たちを匿う景時。歌川国芳筆

頼朝にとっては便利な存在だったでしょうが、そんな愚直さが仇となって御家人たちの怨みを買ってしまいます。

そんな父を献身的に支える長男・梶原景季(演:柾木玲弥)。第15回「足固めの儀式」では、上総介広常(演:佐藤浩市)を斬ろうとする父に素早く太刀を渡す大役を務めていました。

しかし劇中では他にあまり出番がなく(見逃していただけならごめんなさい)、他にも魅力的なエピソードがあるのに、少しもったいない感じです(ドラマの都合上仕方ないですが)。

もったいないと言えば、景時の息子は景季だけでなく、他にもたくさんいるのを知らないのはもったいないと思います。

そこで今回は梶原景時の息子たちを一挙に紹介。知らなくても大河ドラマは楽しめますが、知るともっと楽しめるかも知れません。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、景時の息子たちは以下の7名。

長男:梶原景季(かげすえ。源太)
次男:梶原景高(かげたか。平次)
三男:梶原景茂(かげもち。三郎)
四男:梶原景国(かげくに。六郎)
五男:梶原景宗(かげむね。七郎)
六男:梶原景則(かげのり。八郎)
七男:梶原景連(かげつら。九郎)

四と五が抜けているのは、そこに女児が生まれたのかも知れません。さっそく見ていきましょう。

頼朝の寵愛を受けたクールな長男・梶原景季

応保2年(1162年)生まれ、通称は源太(げんた)。治承4年(1180年)の頼朝挙兵時は大庭景親(演:國村隼)らと共に敵対したものの、後に父や兄弟らと降伏。

養和元年(1181年)4月7日に頼朝の寝所を警護する親衛隊メンバーに抜擢されていることから、よほど信頼と寵愛を受けていたことがわかります。

景季の颯爽たる騎馬姿。勝川春英筆

ちなみに梶原氏は坂東平氏の一族(鎌倉党)であるため、通称は平太(平氏に属する家の長男)が妥当ですが、おそらく頼朝に気に入られて「源」太と改称したのでしょう。

俗説には「景時が頼朝に取り入るために変えさせた」とも言われますが、後に源氏一族の兄弟たちを粛清している通り、頼朝の許可なしに御家人が源氏を称することは考えにくいです。

ともあれ頼朝の信頼に応えるべく景季は忠勤に励み、寿永3年(1184年)1月には源義経(演:菅田将暉)に従って上洛。宇治川で木曽義仲(演:青木崇高)と戦った折、佐々木四郎高綱(演:見寺剛)と先陣争いをしたエピソードが有名です(宇治川の先陣争い)。

宇治川では先陣こそ逃したものの、平家討伐でも大活躍の景季。その武功によって後白河法皇(演:西田敏行)より左衛門尉(さゑもんのじょう)の官職を授かりますが、頼朝に無断で任官したことを叱られてしまいます。

(書状には御家人24名についてこれでもかと罵倒していますが、景季についてはただ名前が連ねられているのみ。あんまりキツく言いたくなかったのかも知れません)

腰の箙(えびら。矢を収めるケース)に梅の枝を挿して戦う風流な景季。歌川国芳筆

ちょっとそそっかしいところもあるものの、父譲りの才覚で文武両道を兼ね備えていた景季は、文治5年(1189年)の奥州征伐で頼朝に和歌を献上。一同を感心させました。

秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし

【意訳】あなた(頼朝)がゆかれる喜びに秋風が草木の露を吹き払い、御裾を濡らすようなことはないでしょう(≒敵はあなたの威光を恐れ、大した抵抗もできないでしょう)。

その後も父子ともども頼朝の側近として活躍。将来を嘱望されていましたが……。

兄とは対照的な熱血タイプの次男・梶原景高

永万元年(1165年)生まれ、通称は平次。頼朝挙兵時点で16歳なので、父や兄に従って出陣しているものと思われます。

血気盛んな性格で、平家討伐の一ノ谷合戦(寿永3・1184年2月7日)では、抜け駆けせぬよう父からきつく窘められていたのにも関わらず単騎で抜け駆け。

もののふの とりつたへたる 梓弓……一ノ谷で奮戦する景高。『武家百人一首』より

もののふの とりつたへたる 梓弓 ひいては人の かえすものかは

【意訳】武士の引いた弓=放った矢が戻らないように、自分もまたここで退くわけにはいかないのです。

そう詠んで敵中へ殴り込んだ景高を放っておけず、景時らも後に従い、一度は引き上げてきました。

しかし人数を数えると景季がいない。家族愛の強い景時は必死になって再び敵中へ突入。孤軍奮闘していた景季(※目印に梅の枝を挿していたとか。美意識も高かった模様)を救出して全員無事に引き上げることが出来たのです。

これを「梶原の二度駆け」と言い、梶原一族の団結力を示すエピソードとして現代に伝わっています。

平家討伐の武功によって景高は兵衛尉(ひょうゑのじょう)に任じられましたが、こちらは兄・景季とは違って頼朝から容赦ないお怒りコメントが浴びせられます。

「惡氣色して、もとより白者(しれもの)と御覧(ごろう)ぜしに、任官誠に見苦し」

【意訳】顔色が悪い(白い)ので頭の中身も白い=バカかと前から思っていたが、やっぱりバカだったか。バカめ!

……まぁ、そんな事もありましたが、文武両道に秀でた景高は奥州合戦でも歌の才能を発揮。頼朝はじめ一同を感心させました。

陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋(つくもはし) 渡して懸けん 泰衡が頸(くび)

【意訳】奥州の軍勢はここ津久毛橋のように、みんな頼朝様のお味方につくことでしょう。橋を渡して架けるように、泰衡の首級もかけて(梟首にして)やりましょう。

地名や掛詞を巧みに織り交ぜて、即興で歌を詠んでしまう機転に脱帽です(景高に限ったことではないものの、日ごろからこうした事に意識が及んでいたことが分かります)。

富士の巻狩り。歌川芳員筆

そんな建久4年(1193年)5月16日、富士の巻狩りで頼朝の嫡男・源頼家(演:金子大地)が初めて鹿を射止める(※大河ドラマとは違い、実際にはちゃんと自力で射止めています)と、その喜びを鎌倉へ伝えに走りました。

「御台様、若君が大手柄ですぞ!」

しかし政子(演:小池栄子)は「そんなの武士の子なら当たり前でしょ。バカじゃないの?(意訳)」と一蹴され、面目を失ってしまいます。

どうもクールな兄・景季に比べると三枚目ポジションな景高。対照的な二人なので、コンビで登場させたら面白かったでしょうね。

ちょっとチャラ男?でもここ一番で決めてくれる三男・梶原景茂

仁安2年(1167年)生まれ、通称は三郎。平次の次だから平三(へいざ、へいぞう)じゃないのかと思うのですが、父・景時が平三なので被らないようにしたのでしょう。

頼朝挙兵の時点で14歳、なので石橋山の戦いが初陣だった可能性はあります。

文治2年(1186年)5月14日、鎌倉に捕らわれていた白拍子・静御前(演:石橋静河)の元へ仲間と共に押しかけ、どんちゃん騒ぎの挙げ句彼女に言い寄るという暴挙に。

義経と別れ、悲嘆にくれる静御前。楊洲周延筆

静御前は愛する義経(謀叛人として逃亡中)の身を案じて針の筵、ましてや義経の子を妊娠しているため身心共に苦しい状態。

盛大にフラれてしまった景茂は、仲間たちと共に引き上げていきました。いくら謀叛人の愛妾とは言え、やって良いことと悪いことがあるというもの。

……景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。々頗落涙云……

【意訳】景茂は盃を傾け、少し酔い過ぎてしまった。その勢い余って静御前を口説いた(艶言を通じた)ものの、彼女に泣かれてしまったのであった。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)5月14日条

まずは気の利いた歌でも送ることから始めればよかったのに……まぁ気を取り直して。

景茂は奥州合戦で武功を立てたことにより、建久元年(1190年)に左兵衛尉(さひょうゑのじょう)となりました。これは頼朝の推挙によるものですから、兄たちのように叱られはしません。

次兄・景高にもまして失態のインパクトが強い景茂。しかし後に弾劾を受けて鎌倉を退去した景時が、万一に備えて鎌倉の留守を任せたのも彼でした(正治元・1199年11月13日条)。

御家人たちからの弾劾状に恐れをなしたか、さんざん利用しておきながら、景時の梯子を外してしまった頼家。

「お前の父(景時)のせいでみんな怒っているぞ。何とかしろ(意訳)」

梶原三郎景茂。歌川貞秀『英雄百首』より

これに対して、景茂はしっかりと反論します。

「父は亡き大殿(頼朝公)より人一倍の寵愛を受けたとは言え、今やそれもありません(意訳:お前は今までさんざん父を利用しておきながら、ここへきて梯子を外しやがったな)。そんな状態で、一体何の悪さができると言うのでしょうか(意訳:ぜんぶお前の指示だろうが、父に責任転嫁しやがって)。父が鎌倉を去って寒川(相模国一宮)へ下向したのは、なすすべもなく弾劾状に署名された皆様のお怒りを恐れてのことですよ(意訳:こちとら争う気はないんだから、早く仲裁せんかいボケ)」

……景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。

※『吾妻鏡』正治元年(1199年)11月18日条

ちょっとだらしないところはあっても、はやり景時の子としてやる時はやってくれる男だったようです。

【後編へ続く】

※参考文献:

石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月 石井進 編著『別冊歴史読本 鎌倉と北条氏』新人物往来社、1999年9月 本郷和人『新・中世王権論 武門の覇者の系譜』新人物往来社、2004年11月

トップ画像: NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式ページより

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