実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・後編【鎌倉殿の13人】

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実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・後編【鎌倉殿の13人】

前編のあらすじ

鎌倉殿・源頼朝(演:大泉洋)の懐刀として活躍した梶原景時(演:中村獅童)と、父を助けた梶原景季(演:柾木玲弥)。

前回の記事

実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】

しかし景時には他にもたくさん息子がおり、前編では個性豊かな兄3名を紹介してきました。続く弟たちはと言いますと……。

梶原景国・梶原景宗・梶原景則・梶原景連

さて、ここまで梶原源太景季(かげすえ)・梶原平次景高(かげたか)・梶原三郎景茂(かげもち)と濃いキャラの三兄弟を紹介してきました。

しかし四男の梶原景国(かげくに)から七男の梶原景連(かげつら)にいたる4名については、最期の場面にしか登場しません。

これは景則か、それとも景宗か……?(イメージ)

景時はじめ梶原一族が全滅させられた正治2年(1200年)時点で末っ子の景連が元服しているところから、文治年間の初頭(1185~1187年ごろ)までには生まれていたものと考えられます。

みんな10代であれば、これと言って事績が記録されていないのも無理はありません。景茂から年齢が離れているため、異母兄弟だったようです。

さて、景時たちの最期を『吾妻鏡』はこのように記しています。

丁未。晴。辰剋。原宗三郎進飛脚。申云。梶原平三郎景時。此間於當國一宮搆城郭。備防戰之儀。人以成恠之處。去夜丑剋。相伴子息等。倫遜出此所。是企謀反。有上洛聞云々。仍北條殿。兵庫頭。大夫属入道等參御所。有沙汰。爲追罸之。被遣三浦兵衛尉。比企兵衛尉。糟谷藤太兵衛尉。工藤小次郎已下軍兵也。亥剋。景時父子到駿河國淸見關。而其近隣甲乙人等爲射的群集。及退散之期。景時相逢途中。彼輩恠之。射懸箭。仍廬原小次郎。工藤八。三澤小次郎。飯田五郎追之。景時返合于狐崎。相戰之處。飯田四郎等二人被討取畢。又吉香小次郎。澁河次郎。船越三郎。矢部小次郎。馳加于廬原。吉香相逢于梶原三郎兵衛尉景茂〔年卅四〕。互令名謁攻戰。共以討死。其後。六郎景國。七郎景宗。八郎景則。九郎景連等並轡調鏃之間。挑戰難决勝負。然而漸當國御家人等竸集。遂誅彼兄弟四人。又景時并嫡子源太左衛門尉景季。〔年卅九〕同弟平次左衛門尉景高〔年卅六〕。引後山相戰。而景時。景高。景則等雖貽死骸。不獲其首云々。

※『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月20日条

晴れ。辰の刻限(午前8:00ごろ)に鎌倉へ原三郎宗房(はら さぶろうむねふさ)からの伝令が到着します。

「梶原一族が昨晩丑の刻(午前2:00ごろ)、寒川の館を出て西へ向かいました。これは謀反のための上洛と思われます」

景時はかねてより寒川の館について堀や土塁を築くなど防護を固めていたため、立て籠もって戦うつもりかと疑っていたところ、防ぎ切れまいと見て逃げ出したのでしょう。

そこで北条時政(演:坂東彌十郎)は大江広元(演:栗原英雄)や三善康信(演:小林隆)らと合議して景時の討伐を決定。

さっそく三浦平六兵衛尉義村(演:山本耕史)・比企右衛門尉能員(演:佐藤二朗)・糟谷藤太兵衛尉有季(かすや とうたひょうゑのじょうありすえ)・工藤小二郎行光(くどう こじろうゆきみつ)らの軍勢を派遣しました。

梶原一族の最期

一方、寒川から西へ逃げに逃げてきた梶原一族は亥の刻(午後10:00ごろ)に駿河国清見関(現:静岡県静岡市)までやってきます。

寒川より一路京を目指す梶原一族(イメージ)

すると、そこに居合わせた(弓射大会のために集まり、そろそろ酒宴を解散しようと思っていた)近郷の武士たちと遭遇。

彼らは梶原一族を怪しんで矢を射かけ(いきなり?誰何もしなかったのでしょうか)、血気盛んな廬原小次郎(いはら こじろう)や工藤八郎(くどう はちろう)・三澤小次郎(みさわ こじろう)・飯田五郎家義(いいだ ごろういえよし)が梶原一族に襲いかかります。

「是非もない……かかれ!」

景時は狐崎まで後退して敵を引きつけて戦い、飯田四郎(しろう。家義の一族と思われる)など2名を討ち取りました。

「おのれ、よくも四郎を殺りやがったな!」

そこへ吉香小次郎(きっか こじろう。吉川小次郎)・渋河次郎(しぶかわ じろう)・船越三郎(ふなこし さぶろう)・矢部小次郎(やべ こじろう)らが廬原小次郎たちに加勢します(小次郎が多いですね)。

「やぁやぁ我こそは吉香小次郎……そこな若造。それがしと手合わせせぃ!」

「おぅ。我こそは梶原三郎景茂……いざ組まいでか!」

景茂は吉香小次郎の挑戦を受けて立ち、壮絶な死闘の後に相討ちとなってしまいました。

「七郎八郎九郎!遠矢で敵を防ぐぞ!」

「「「承知!」」」

一方で景国は景宗・景則・景連を指揮して敵の増援を足止めしていたものの衆寡敵せず、ついには4人とも討ち死にしてしまいます。

「父上、あの山に入って持ちこたえましょう!」

残った景時と景季・景高は山へ逃げ込んで最期まで抗戦したものの、ついにはことごとく討ち滅ぼされてしまったのです。

エピローグ

翌1月21日。梶原一族33名の首級が路傍にさらされ、1月23日に戦闘の詳細が明らかにされます。

梶原景時の最期。月耕「月耕随筆 梶原景時」

【梶原一族を滅ぼした者たち】

廬原小次郎:梶原景国(六郎)と梶原景則(八郎)を討ち取る 飯田五郎家義(の郎党):景茂の郎党2名を討ち取る 吉香小次郎:梶原景茂(三郎)を討ち取る 渋河次郎(の郎党):景時の家子4名を討ち取る 矢部平次:梶原景季(源太)・梶原景高(平次)・狩野兵衛尉の3名を討ち取る 矢部小次郎:梶原景時を討ち取る 船越三郎:家子1名を討ち取る 大内小次郎:郎党1名を討ち取る 工藤八郎(の郎党・工藤六郎):梶原景連(九郎)を討ち取る

※『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月23日条より意訳。

『吾妻鏡』では七郎景宗を誰が討ち取ったのか記録がなく、もしかしたら誰が討ち取ったのか揉めたのかも知れません。

この中で武功一等と称されたのは吉香小次郎。景時はかねてより「上洛に際して、駿河国内一番の勇士である吉香小次郎の家さえ通過できれば、後はもう大丈夫」と語っていたとか。

景時の懸念が死亡フラグになったのか、あえなく梶原一族は滅亡してしまったのでした。

終わりに

かくして頼家を支えるために結成された「鎌倉殿の13人」は、頼朝の死後1年ばかりで早くも崩壊が始まります。

この後に三浦義澄(演:佐藤B作)や安達盛長(演:野添義弘)が相次いで病死。バランサーを失ったためか、血で血を洗う政治抗争が本格化していくのでした。

物語も後半に差しかかって、今から景季以外の息子たちが(名前の出る形で)登場することはないと思います。しかし彼らの存在も知っておくことで、大河ドラマの鑑賞もよりいっそう楽しめることでしょう。

【完】

※参考文献:

石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月 石井進 編著『別冊歴史読本 鎌倉と北条氏』新人物往来社、1999年9月 本郷和人『新・中世王権論 武門の覇者の系譜』新人物往来社、2004年11月

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