恋心を隠し切れず源頼朝の女?に手を出して粛清された安田義資【鎌倉殿の13人】 (3/3ページ)
東家とは関東すなわち鎌倉殿、ここでは頼朝のこと。蝉髪(せんびん。蝉鬢とも)とは蝉の羽のように美しく透ける髪つまり女性を差します。
義資が三年間、恋焦がれ続けた女性はきっと、頼朝のお気に入りだったのでしょう。それに手を出そうとしたのが腹立たしくて、永福寺への不敬を名目に処刑。
まして義資はかねがね頼朝が警戒していた甲斐源氏の有力者ですから、勢力を削ぐのには絶好の大義名分と言えます。
「子の不始末は、親の責任である!」
連帯責任で義定は遠江の地頭職を没収され、翌建久5年(1194年)8月19日に謀叛の疑いで粛清されてしまいました。
終わりにかくして粛清されてしまった安田義定・義資父子。かねがね警戒されている甲斐源氏の立場をちゃんと弁えていれば、こんなことには……と悔やまれてなりません。
しかし当人はリスクを承知で、決死の覚悟を決めて艶書を投げ込んだのでしょうから、岡目八目はこの辺にしておきましょう。
義資の子孫はやがて大江氏に仕えてその命脈を保ち、安芸国(現:広島県西部)や若狭国(福井県西部)へ移住してそれぞれ活躍したということです。
※参考文献:
柴辻俊六『甲斐 武田一族』新人物往来社、2005年10月 歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』学研プラス、2011年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan