「明暦の大火」で多くの遊女が蒸し焼きに。全焼失した元吉原が進化した”新吉原”とは? (2/3ページ)

Japaaan

当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

「火事と喧嘩は江戸の華」とは言うものの、記録によると江戸全体で堀に落ちて死んでいた死人だけでも2万3千人を超え、どの堀も埋め尽くされて平地のようになったという惨状。全体では6~10万人もの死者が出たといいます。

遊女を含め多くの人々が念仏を唱え、助けを求めながら死んでいったといいますから、元吉原の亡くなった遊女の事を思うと手を合わさずにはいられません……。

新吉原に移転

さて、そんな悲しみをばねに、吉原遊郭は更に飛躍します。幕府の命令により焼け野原になった浅草浅草寺裏に移転が決まりました。

浅草寺裏というのは当時の名前で千束村と言い、 現在の東京都台東区千束三~四丁目に相当する場所です。ここから吉原は「新吉原」として元吉原とは比較にならないほどの大発展を遂げるのです!

新吉原の規模とは

吉原は縦が京間で百三十五間、横が百八十間の長方形で、総坪数は二万七百六十七坪、東京ドームが約一万四千坪ですから、いかに広い敷地だったかが分かると思います。

周囲には忍返が植えられた黒板塀がめぐらされており、更にその外側にお歯黒どぶと呼ばれる堀がぐるりと取りかこんでいました。

遊女の逃亡を防ぐために設けたもので、堀の幅はおよそ二間(約三・六メートル)。遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからその名がついたといいます。

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