野田秀樹の戯曲「パンドラの鐘」から考える死への向き合い方

心に残る家族葬

野田秀樹の戯曲「パンドラの鐘」から考える死への向き合い方

日本では「死」は穢れとされ、忌むべき対象とされる。一般的に「死」に限らず「穢れ」とされるものは「忌むべきもの」と考えられている。では「忌む」とはどういうことか、といえば「不吉なものとして避ける」「禁忌とする」ことをいう。「穢れ」は周囲に悪いことをもたらす危険な状態と考えられているため、これを「忌む」のである。死を「穢れ」と考える日本人は、当然、「死」を「忌む」ことになる。「死」は恐怖の対象とされ、周囲に伝染すると考えられていたからだ。

■けがれ 穢れ 汚れ 気枯れ

「穢れ」は「気枯れ」とも書き、「人の命が消え、生気が枯れたこと」、「大切な人を失い、周囲の人が気落ちした状態」を指す。人が亡くなった時に神棚を封じる必要があるのは、人々が気落ちした状態の悪影響を神様に及ぼさないためという。

「穢れ」の考え方は神道の影響があって、元をたどっていくとイザナミ・イザナギの話から始まるのだが、それは古事記を読んでいただきたい。

■神式の葬儀と死

葬式は、現在は葬祭場で行われることが一般的だが、少し前までは、仏教では寺で行うこともあった。しかし神道では神社ではなく各家で行った。神社は聖域なので「穢れ」は持ち込んではいけないからである。神社での手水舎は、聖域に入る前に、穢れを祓うためにある。

神道では、亡くなった方は、火葬・埋骨された後もその霊魂は祖先の霊とともに家にとどまり、遺族の守り神になるとされている。「ご先祖様」である。神式の葬儀、つまり神葬祭には、氏神であるご先祖様に故人が亡くなったことを知らせ、故人を先祖のもとへ送り、遺された家族を守ってくださいと祈るのである。神道では死は「穢れ」とされているため、「穢れ」を「祓い、浄める」ということも、神葬祭の目的とされる。

■仏式の葬儀と死

仏教では死は「穢れ」とはされていない。仏教は輪廻転生の教えがあるので、次に生まれ変わって来るからである。

しかし、日本は神仏習合の国でもあるので、仏式の葬式の際に「清めの塩」を配る風習がある。この「清めの塩」は元々神道からきたもので、死を穢れたものととらえ、清めるという考え方からきている。葬式や火葬に行くと死穢に染まるから穢れを家に持ち込まない、という考えから清めの塩を家に入る前に振る。

しかし、最近では仏教の本来の考え方により、「お清めの塩」を使わない葬式が増えている。特に「浄土真宗」や「真宗」は「誰でも浄土に行くことができる」という教えなので、清めるという行為は正しくないとされ、塩を振ったりしない。

■野田秀樹の戯曲『パンドラの鐘』でのワンシーン

野田秀樹の戯曲に『パンドラの鐘』という名作があり、葬式屋の「ミズヲ」と、まだ少女の女王「ヒメ女」との場面に以下のような会話がある。

ミズヲ:何故人は、死者をこんなに忌み嫌うんだ。ついこの間まで生きていて、話もし、笑ってもいた、まして知り合いが死んで化けて出てきたら「きゃあ」じゃなくて「やあ」じゃないのか。
ヒメ女:でも幽霊は足がなかったりするのよ。
ミズヲ:とすればそれは、足の不自由な幽霊だ。
ヒメ女:あたしが死んで、そんな姿で化けてでてきても、あなたは「やあ」と言ってくれる?
ミズヲ:言うよ。「やあ」でも「おお」でも「ナイストゥーミーチュー」。
ヒメ女:うわあー、ひさしぶりー。
ミズヲ:元気い?
ヒメ女:元気い。
ミズヲ:元気なんだあ。
ヒメ女:死んじゃってさあ。
ミズヲ:もっと化けて出て来いよ。
ヒメ女:……そんな気がしてきた。
ミズヲ:死者をお化けなんて呼んで、死者に悪意のある人間は、この世がやましいんだ。死者に恨みを買うような奴らなんだ。
ヒメ女:じゃあおまえは、大好きな人が死んだら、化けて出てくるのを心待ちにする?
ミズヲ:勿論、丑三つ時にローソクつけて墓場で待つ。
ヒメ女:そこまでするの?
ミズヲ:だって会いたいでしょ。
ヒメ女:誰に。
ミズヲ:その人に。

引用:「20世紀最後の戯曲集」野田秀樹著(新潮社)『パンドラの鐘』より

この舞台を見ていて、ハッとさせられた。「その通りだ」と思った。

「何故人は、死者をこんなに忌み嫌うんだ?」

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