絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】 (2/3ページ)

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しかし、広大な建仁寺方丈の5つの部屋に雲龍図のほか、全52面の水墨画障壁を描き切っただけに、とても70歳近い老人には見えなかった。

この雲竜図は、『建仁寺方丈障壁画 雲竜図襖』として今に伝わり、重要文化財に指定されている。

栄西禅師が建立した京都最古の禅寺・建仁寺。(写真:高野晃彰)

浅井家に殉じた海北家の再興を目指す

海北友松は、1533(天文2)年、北近江の戦国大名浅井家の重臣海北綱親の5男として生まれた。しかし、2歳の時に父が討ち死。それを契機に、京都東福寺で禅僧としての修行に入った。

なぜ友松が幼くして出家したかは不明だ。だが当時、群雄割拠の地・近江の一大名にすぎなかった浅井家においては、いつ綱親と同様な死を迎えることになっても不思議ではない。近江から離れることで、いざという時の血脈を残すためということもあったのだろう。

巨大な伽藍が特徴の東福寺。新緑や紅葉の名所としても知られる。(写真:高野晃彰)

いずれにせよ、この期間に画家としての友松の基礎が完成したことは間違いない。諸説あるものの、この間に狩野元信・永徳らに画を学んだといわれている。

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