長崎の原爆投下から77年。「運命」と呼ぶにはあまりに非情な驚きの事実【前編】 (2/2ページ)
実際に長崎に原爆を投下したB-29「ボックスカー」に先行して小倉市の偵察に向かった「エノラ・ゲイ」は「小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる」、長崎市を偵察していた「ラッギン・ドラゴン」からは「長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2である」との報告がありました。
小倉市を守った黒煙の正体報告を受けた時点では小倉市への投下を考えていたB-29「ボックスカー」は原子爆弾「ファットマン(太っちょ)」を搭載し午前9時44分、投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達しましたが、小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、投下目標の目視確認に失敗します。
この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲の残煙と靄だといわれています。つまり小倉市から近距離の空襲が、皮肉にも小倉市を守ったとも言えます。
それだけではありません。広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所が、8月9日の朝B-29「エノラ・ゲイ」などが上空を飛び回っているのに気が付き警戒し、煙幕装置に点火しコールタールを燃やして黒煙を大量に発生させたのです。
空を覆い隠すほどの黒煙が上がり、「ボックスカー」は小倉市への原子爆弾投下を諦めざるを得なくなったのです。煙幕作戦に携わった人々は、自分達の行動によって小倉は守られたものの長崎市が代わりに目標になった事を後に知り、戦後長く誰も語ることをせず重い記憶を背負って生きていたと証言しました。
長崎の原爆は、被爆者のみならず小倉の人々の心にも重い傷を負わせたのです。
後編へ続く
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