絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その2】
狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)を紹介するシリーズの2回目。
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父の死により京都東福寺に入った友松だったが、海北家は主君浅井長政とともに織田信長により滅ぼされた。
友松は、画家として活動する傍ら、海北家の再興を目指すことになる。
【その2】では、主君・浅井家の滅亡と運命をともにした実家・海北家の再興を目指す友松が、その過程で出会った斎藤利三を始めとする人々のお話をしよう。
武門の誉れ高い友松の父・海北綱親
友松の実家・海北家は、北近江の戦国大名浅井家の重臣の家柄である。
友松の父・海北綱親は、浅井家中にあって赤尾清綱・雨森清貞と並び、浅井三将と称された一人で、浅井軍の軍奉行(いくさぶぎょう)として軍事全般の総指揮にあたった人物だった。
織田信長の後継者として天下統一を果たした豊臣秀吉。(写真:Wikipedia)
織田信長のもとで、浅井攻めに従事していた豊臣秀吉は、綱親の知勇兼備の才覚を恐れていたという。そして、後に友松を謁見した時に、
敵と味方に分かれていたとはいえ、そなたの父は、余の軍(いくさ)の師であった。
と感慨を述べている。
海北家の再興を目指す過程で出会った人々海北友松は、文化人・武家を問わず、幅広い人脈との交流を図った。それは、お家再興を目指す友松にとって必要な活動だった。
なかでも、二人の人物と運命的な出会いを果たし、生涯にわたり熱い友情で結ばれていた。
そんな親友の一人が、京都真如堂の塔頭東陽坊の住持・東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)だ。
そしてもう一人の親友が、明智光秀の家老・斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)だった。
長盛は僧侶でありながら、茶の湯を千利休に学んだ文化人として知られる。その縁で友松は、大名であり当代きっての知識人といわれた細川幽斎(ほそかわゆうさい)の知遇を得ることになる。
足利将軍家の家臣として、また織田家配下の大名として活躍した細川幽斎。(写真:Wikipedia)
幽斎は、室町幕府第15代将軍足利義昭に仕えながら、織田信長に従い、明智光秀の与力として活躍していた。
また、禅僧として修業をしていた東福寺には、同じ武家出身の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がいた。友松が後に天下人豊臣秀吉と面会を果たすのは、秀吉から信任が厚かった恵瓊を通じてのことと思われる。
そして、斎藤内蔵助利三。利三は室町幕府奉公衆の出身で、美濃国主の斎藤義龍に仕えた。斎藤家中では、その重臣・稲葉一鉄の与力になるが、義龍の子竜興の時、当家を去り、明智光秀に仕えその筆頭家老となった人物だ。
文武両道に優れた武将であった斎藤利三。(写真:Wikipedia)
利三は、武将としても文化人としても一流といわれ、特に茶の湯に通じていたとされる。友松と利三の出会いは想像するしかない。だが、明智光秀と細川幽斎が盟友関係にあったため、おそらくは幽斎を主とする茶会を通して知り合ったのではないだろうか。
また、友松が光秀に会ったという記録は残されていない。しかし、利三は明智家で筆頭家老を勤めているので、光秀とは顔見知りであったことは想像に難くない。
光秀は、斎藤義龍により家を滅ぼされ、諸国を流浪しながら、明智家再興を目指した。そして、織田信長のもとで才覚を表し、30万石を超える大名に出世した。
織田家において信長に最も信頼された武将の一人明智光秀。(写真:Wikipedia)
同じように実家の再興を目指していた友松は、そんな光秀に対し羨望を通り越し、畏敬の念すら抱いていたのではないだろうか。
【その2】はここまで。【その3】では、山崎の戦いにより非業の死を遂げた斎藤利三に対し、友松がとった行動と、その後についてお話ししましょう。
<参考文献>
葉室麟著 『墨龍賦』(PHP研究所/PHP文芸文庫)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
