田んぼの中をひたすら進む?江戸時代「新吉原」にはどうやって行っていたの?

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田んぼの中をひたすら進む?江戸時代「新吉原」にはどうやって行っていたの?

Japaaan読者の皆さんこんにちはんこんにちは。ライターの小山桜子です。江戸時代、新吉原は遊廓(遊郭とも書く)のほか、廓(郭)、遊里、色里、遊所などと呼ばれていました。

江戸市中から見て北に位置していることから、北里、北国、 北州、北廓などとも呼ばれました。

江戸時代は結婚すると浮気や不倫は犯罪でしたが、その代わりたまに吉原に行くくらいであれば、「素人の娘に引っかかるよりは良い」と大目に見る奥さんも多かったようです。

といってもやはり良い気持ちはしないもので、「悪所」だとか「悪所場」などと言って吉原遊郭の事を嫌う人も多くいました。

反対に、遊び慣れた通人や、中に住んでいる遊女、吉原の関係者達はちょっぴり格好つけて「丁(ちょう)」、「里(さと)」、「中(なか)」と呼んで粋がっていました。

落語でも「里」や「中」という言葉がよく出てきますが、それらは吉原遊郭を指していたのですね。さて、今回はそんな通のお客になり切って、吉原への行き方を辿ってみましょう。

日本堤をひたすら進む

まずは浅草寺の裏手に行き、浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ日本堤という土手道で周囲より高くなっている堤をひたすら進みます。

もともとは隅田川の出水を防ぐための堤防だったので周りはとにかく田んぼだらけの田舎道なのですが、千束村に新吉原が移転してから吉原へ通う道として知られるようになってからは、吉原の行き帰りの客を当て込んで葦簀張りの水茶屋や屋台店が多数並ぶようになりました。

土手八丁とも呼ばれ、8町=約872mもある長い堤でしたが、吉原はそのほぼ真ん中に位置していたので、江戸のどこから来るにしても、最後はこの日本堤を通る事になりました。

衣紋坂を下っていく

日本堤は土手道で周囲より高くなっていますが吉原自体は日本堤ほど高い位置にはありませんでした。そのため、吉原の中に向かうには坂をくだります。この坂が衣紋坂(えもんざか)です。

衣紋坂から大門までの道を五十間道(ごじっけんみち)と呼びました。 距離がおよそ五十間(約90m)だったことからその名前で呼ばれるようになったといわれています。

五十間道は三曲がりに曲がり、両側には茶屋や商家が軒を連ねていたそうです。また衣紋坂の左手入り口に、有名な見返り柳が立っていました。この柳は今も見る事ができます。

帰る客が名残を惜しみ、このあたりで吉原のほうを見返ることからその名前が付いたそうです。また、坂の右手のおりたところに、高札場があったそうです。

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