遣唐使廃止後にますます発展して日本文化に影響を与えた平安時代の「国風文化」とは?

「遣唐使の廃止」との因果関係
平安時代の中期から後期にかけての日本文化は「国風文化」と呼ばれています。
また同時に、藤原氏の摂関政治を中心とする貴族社会を背景に展開された文化であることから、「藤原文化」とも呼ばれています。
一体どのような文化だったのでしょうか?
国風文化が生まれたのは894年に遣唐使が廃止されたのがきっかけと言われています。しかしこれは、「遣唐使が廃止されたため大陸の文化が入りづらくなり、その結果日本独自の文化が開花した」というわけではありません。

この頃には国のプロジェクトとしてではなく、個人私有の船を使用して大陸と日本の間で行き来が行われるようになっていたのです。
よって、遣唐使が廃止されたあとも日本には中国の文化が変わらず入ってきていました。むしろそうした動きは遣唐使の廃止前よりも活発になっていたほどです。
つまり国風文化は、完全に日本の文化だったのではなく、流入した文化を日本に合うように洗練させていった文化だと言えます。
文学・衣服への影響まずは文学です。それまでの日本の文学といえば、中国からやってきた漢字を使用して書かれたものが多かったのですが、この時期に「仮名文字」が登場します。
現代の私たちも使用しているひらがなやカタカナのことです。この仮名文字によって清少納言の『枕草子』や、紫式部の『源氏物語』などが生まれました。

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」(Wikipediaより)
建築や人々の服装にも変化が現れます。貴族達は寝殿造と呼ばれる造りの建物に住むようになります。儀式や行事を執り行うメインホールである寝殿を中心に、家族が住まう棟や釣殿が廊下で結ばれている建物です。寝殿造の有名な建物に、京都の平等院鳳凰堂があります。
服装は日本の気候に合わせた、袖口がゆったりとしたものが登場します。男性は「束帯」、女性は「十二単」がこの時代の正装でした。
宗教・芸術分野への影響宗教にも大きな変化がありました。平安時代中期から後期にかけては疫病が大流行したり、政治が揺らいだり、生活を脅かすような事態が続いた結果、人々の間にとても大きな不安が生まれていたのです。
そのため、仏教の教えが正しく行き渡らず、それどころか正しい教えが消えてしまうという「末法思想」が広がりつつありました。
そんな時、阿弥陀仏に縋って念仏を唱えることで極楽浄土に行けるという「浄土信仰」が生まれました。これは人々の間であっという間に広まり、のちに浄土宗などの宗派が生まれることになります。

さらに、この浄土信仰が芸術にも大きな変化をもたらします。
彫刻では阿弥陀如来像が寄木造の技法を用いて製作されるようになり、仏教絵画では来迎図などが描かれるようになりました。
他にも仮名文字の登場によって物語性のある絵画や絵巻物が登場。山や川など日本の風景を描いた「大和絵」が誕生します。
国風文化で見られるものはいずれも、日本の文化発信の中心的存在である貴族層の生活の中で発展していきました。彼らによって日本人独自の感性が磨かれていったと考えられています。
参考資料
まほろば社会科研究室 世界の歴史まっぷ日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan