矢沢永吉72歳「YAZAWAの伝説」は続く…デビュー50周年の知られざる軌跡

日刊大衆

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 “カリスマロックスター”矢沢永吉が、デビュー50周年を迎えた。

「50周年を記念して、8月27日より全国スタジアム&ドームツアー『MY WAY』が開催されます。現在、72歳の矢沢は、ツアー中の9月14日に73歳の誕生日を迎えるため、自身が持つ69歳の『ソロアーティスト最年長ツアー記録』を、さらに更新することになります」(音楽業界関係者)

 古希を過ぎても走ることを止めない矢沢。そんな“生涯現役ロッカー”の50周年を祝し、数々の伝説&名言を振り返ってみよう。

 矢沢の音楽活動は、1972年デビューの『キャロル』から始まった。キャロル時代から不良のカリスマ的存在だった矢沢だが、その壮絶な生きざまが全国区になった契機は、ソロデビュー後に発表された自伝『成りあがり』だった。

「自伝では、3歳のときに母親が蒸発し、小学2年生のときに原爆の後遺症によって父親と死別。祖母に育てられたことが綴られています。極貧の幼少期だったようです」(芸能記者)

 当時の伝説として、こんなエピソードがある。

 クリスマスイブの日、裕福な家の子がケーキを持って現れ、「おまえの家は、こういうの食えないだろう」と言って、矢沢にケーキを投げつけた。

「その切れ端が、矢沢少年の頬にべチャッとくっついた。殴りかかってもおかしくない状況だが、彼は心の中で“落ちないでくれ”と願い、相手が横を向いたときに舌でペロッとケーキを舐めたんです」(前同)

 このとき矢沢は、「誰よりもビッグになって、金持ちになる」ことを決意したというが、『1億2000万人の矢沢永吉論』の著者である浅野暁氏は、「この瞬間が、“矢沢伝説の序章”ではないか」と見ている。

 燃え盛る将来への野望と屈辱を抱えたまま、矢沢少年は成長していく。

「永ちゃんは広島の高校を卒業すると卒業証書を破り捨て、最終電車で東京へ向かったわけですが、ここから本格的に矢沢伝説が始まったんです」(前同)

■運命を変えた横浜

 ところが、長距離の移動で尻が痛くなった矢沢は、途中の横浜駅で降りてしまう。憧れのビートルズが港町のリバプール出身だったことから、同じ港町の横浜に惹かれたという気まぐれだったようだ。

「翌朝、三食宿つきのボーイの仕事を見つけ、矢沢はそのまま横浜に居ついてしまう。東京を目指していたはずが、なぜか横浜。ただ、もし矢沢が横浜駅で降りていなければ、キャロルが結成されることもなかったでしょう」(同)

 川崎の楽器店にバンドメンバー募集の貼り紙を出した矢沢。それを見て電話をかけてきたのが、キャロルのメンバーとなるジョニー大倉(故人)と内海利勝(69)だった。

「キャロルは社会現象になるほどの人気バンドに成長しましたが、ジョニー大倉のドラッグ問題などもあってメンバー間に軋轢が生まれ、あえなく解散。実質3年足らずの活動でした」(前出の業界関係者)

 キャロルの幕引きも、伝説になっている。

「75年に日比谷野外音楽堂で行われた解散コンサートでは、特殊効果の爆竹の火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が崩れ落ちるというアクシデントがあったんです。しかし、観客はキャロルが燃え尽きたことを暗示する演出だと思って、大興奮したんです」(前同)

 このラストはロック史に残る名シーンとして語り継がれ、日比谷野音が「ロックの聖地」と呼ばれるきっかけにもなった。

 キャロル解散後、矢沢は単身渡米し、ロサンゼルスでレコーディングした『アイ・ラヴ・ユー、OK』をひっさげてソロデビュー。

 キャロル時代のイメージを払拭すべく、バラードを中心とした新たなカラーを打ち出したが、最初はさんざんな評価だった。

「しかし、77年には、日本人ロック・ソロアーティストとして初となる武道館単独公演を実現します。日比谷野音同様、武道館が“ロックの殿堂”となったのも、矢沢の功績なんです」(前出の浅野氏)

 その後、全国ツアーの締めくくりが毎年、武道館で開催されるようになり、矢沢は146回という武道館最多公演記録を樹立。「初」と「最多」の同時受賞、矢沢以外は不可能だろう。

 今回のツアー「MY WAY」に武道館公演は含まれていないが、2019年に竣工した国立競技場でライブを行う。これは有観客公演として史上初のことで、またもや矢沢が「初」記録に名を刻むのだ。

 現在発売中の『週刊大衆』9月5日号では矢沢永吉が作った「伝説」を多数掲載している。

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