愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【前編】

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愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【前編】

鎌倉武士と聞くと、何かと「お堅い」印象を受ける方も多いかと思います。

いつも武道に鍛錬し、高潔な精神で己を律する……もちろんそういう武士もいたでしょう。しかし彼らも私たちと同じ人間。いつもカッコよく戦うばかりではありませんでした(むしろそういう武士はごく少数派だった模様)。

どっちかと言えば無法者じみた連中の方が多かった(ほとんどだった)ようで、その行状を見るにヤクザなんじゃないかと思えるような事例もしばしば。

とは言えただ怖いばかりではなく、時には愉快に楽しんだエピソードも『吾妻鏡』など史料に伝わっています。

そこで今回は愉快で恐ろしい鎌倉武士の一人・三浦家村(みうら いえむら)を紹介。非常にキャラが立っているので、その魅力を少しでも伝えられたら幸いです。

特技は弓射と隠し芸?藤原頼経・頼嗣の2代に仕える

三浦家村は生年不詳、三浦義村(よしむら)の四男(諸説あり)として誕生しました。

通称は駿河四郎(するがのしろう)。これは駿河守であった父・義村の四男であったことを示します。

騎射の腕前を披露する家村(イメージ)

『吾妻鏡』での初登場は貞応元年(1222年)7月3日。讃岐中将こと一条実雅(いちじょう さねまさ)が大倉の館で百日にわたる小笠懸(こがさがけ。騎射鍛錬の一つ)を始めた際に、兄・三浦泰村(やすむら。駿河次郎)と共に射手として腕を奮っています。

讃岐中將。於大倉亭。被始百日小笠懸。毎日日出以前。若属晩凉。可會合之由。數輩成約諾。先今日射手結城七郎朝廣。駿河次郎泰村。同四郎家村。小笠原六郎時長。佐々木太郎兵衛尉重綱。同八郎信朝。伊東六郎兵衛尉。嶋津三郎兵衛尉忠義。原左衛門尉忠康。岡邊左衛門尉時綱。横溝五郎。同六郎。伊具右馬太郎盛重。

※『吾妻鏡』貞応元年(1222年)7月3日条

三浦一族は弓の名手が多く、その名に恥じぬ腕前を誇ったことから、以後ちょくちょく騎手として登場。第4代鎌倉殿・藤原頼経(ふじわらの よりつね)の側近として信頼されており、行事への供奉や太刀持ちなどの大役も任されました。

仁治2年(1241年)6月27日には式部丞(しきぶのじょう)に推挙され、7月25日付の辞令書が京都から届いたことをみんなに見せびらかしています。よほど嬉しかったのでしょうね。

駿河四郎〔式部丞〕家村持參去月廿五日除目聞書披覽。彼日令叙爵之由申之。六月廿七日任式部丞訖。

※『吾妻鏡』仁治2年(1241年)8月11日条

「おいみんな、見てくれよ!やったぜ式部丞、何かカッコいいなぁオイ!」

「ハイハイおめでとうよ。で、その式部丞ってのは何をするンだ?」

「……さぁ?」

宴会の盛り上げ役として活躍した?家村(イメージ)

延応元年(1239年)7月20日には頼経が気まぐれで夜遊びに出かけるとこれにつきあったり、寛元2年(1244年)7月16日には隠し芸大会に出場したり、何かとノリのいいキャラだったようです。

久遠壽量院供花結願也。大殿將軍家入御。岡崎僧正。内大臣法印。大藏卿法印以下參集。垂髪僧徒并俗人相分延年。毎事催興。光村。家村等施藝云々……

※『吾妻鏡』寛元2年(1244年)7月16日

【意訳】この日は久遠寿量院(くおん じゅりょういん。頼経の持仏堂)に献花する法要が開かれ、頼経(大殿=前将軍)と藤原頼嗣(よりつぐ。頼経の子で現将軍)が参列された。名だたる僧侶たちが集まり、お寺チームと俗人チームの対抗で恒例の隠し芸大会を行なった。三浦光村(みつむら。駿河三郎)と家村兄弟たちも隠し芸を披露したのだとか。

この時、光村と家村はそれぞれ別の芸だったのか、それともコンビネタを披露したのか、何よりどんなネタでウケたのか滑ったのか、是非とも記録しておいて欲しかったですね。

でも、こんな楽しいことばかりじゃありません。

あわや合戦勃発!?一本の矢から大喧嘩

未尅。若宮大路下々馬橋邊騒動。是三浦一族与小山之輩有喧嘩。兩方縁者馳集成群之故也。前武州太令驚給。即遣佐渡前司基綱。平左衛門尉盛綱等。令宥給之間。靜謐云々。事起。爲若狹前司泰村。能登守光村。四郎式部大夫家村以下兄弟親類。於下々馬橋西頬好色家。有酒宴乱舞會。結城大藏權少輔朝廣。小山五郎左衛門尉長村。長沼左衛門尉時宗以下一門。於同東頬又催此興遊。于時上野十郎朝村〔朝廣舎弟〕起彼座。爲遠笠懸向由比浦之處。先於門前射追出犬。其箭誤而入于三浦會所簾中。朝村令雜色男乞此箭。家村不可出与之由骨張。依之及過言云々。件兩家有其好。日來互無異心。今日確執。天魔入其性歟云々。

※『吾妻鏡』仁治2年(1241年)11月29日条

時は仁治2年(1241年)11月29日、その事件は起こりました。

お昼過ぎ(未の刻、14:00ごろ)に若宮大路は下馬橋の西側にある遊郭で、三浦泰村・三浦光村・三浦家村ら兄弟親類が集まってドンチャン騒ぎ(酒宴乱舞)をしています。

一方、反対の東側では結城朝広(ゆうき ともひろ。大蔵権少輔、結城朝光の嫡男)・小山長村(おやま ながむら。五郎左衛門尉、小山朝政の孫)・長沼時宗(ながぬま ときむね。左衛門尉、小山朝政の甥)・結城朝村(ともむら。上野十郎。朝広の異母弟)らがいい感じに楽しみ、いい感じに酔っぱらっていました。イヤな予感しかしませんね。

酒宴で盛り上がる小山一族(イメージ)

「おうみんな。浜へ出て遠笠懸(とおかさがけ。遠距離射的)でもしようぜ」

「いいねぇ……ウィック」

上野十郎(こうずけ じゅうろう)がそう言うと、小山一族ご一行様はノロノロと席を立ちます。すると、若宮大路を挟んで対面に一匹の犬がいました。

「よぅし、景気づけにあれを射止めようぜ」

言うが早いか十郎は弓を引き絞って矢を射放ちます。犬を見たらとりあえず射ようとする発想がアレ過ぎますが、とかく鎌倉武士たちはこんなノリで生きていたようです。

しかし酔っ払っていたせいか手元が狂い、矢が遊郭の中へ飛んで行ってしまいます。そして三浦兄弟がドンチャカしているところへ突き立ちました。

「あ、いけね」

十郎は雑色(ぞうしき。召使い)に命じて矢を回収に向かわせますが、そこにいたのは満面を憤怒に染めた家村。矢を返す訳がありません。何なら手さえ出ていたでしょう。

「てめぇ、我らを三浦兄弟と知っての狼藉か!」

「いやぁごめんごめん。悪気はなかったんだ……つ(言)ってンだろ!」

「ごめんで済んだら侍所は要らんのじゃ!」

「ほうけ、だったらどうしてくれようかい」

「表ぇ出ろ我れぁ!」

「上等じゃ!おぅ、すぐに頭(アタマ=人数)集めろぃ!」

さぁ始まりました三浦と小山、両一族のにらみ合い。それぞれ家人郎党を掻き集め、今にも合戦が始まりかねない勢いです。やがて次から次から軍勢が集結し、さながら坂東の南北頂上決戦(※)の様相を呈してきました。

(※)三浦一族は相模=神奈川県、小山一族は下野=栃木県を本拠地としています。

「……あンのバカども、何をしておるんじゃ!」

急報を聞いた執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の驚くまいことか、ただちに側近の後藤基綱(ごとう もとつな。佐渡前司)と平盛綱(たいらの もりつな。左衛門尉)を派遣して食い止めさせます。

『武家百首』より、佐渡前司基綱。

「うぬら、何をしておるか!散れ!」

「散らねば将軍家への謀叛と見なし……てめぇらまとめてブッ殺したらぁ!」

その剣幕を前に恐れをなした訳では決してないものの、なるべく事を構えたくない両党は渋々兵を引き上げ、何とか鎌倉炎上は避けられたのでした。

ちなみに、三浦と小山の一族は日ごろ互いに仲良しで、この日はどうしてこんなことになってしまったのか分からなかったと言います。きっと魔が差しでもしたのでしょう。

さっきまで笑って酒を酌み交わしていたのに、しょうもないことでカッとなって親友を斬り殺す。鎌倉武士というのは、とかくそんなノリで生きていたのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:

細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年11月

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