戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【前編】

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戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【前編】

白虎隊、自刃す

戊辰戦争の折、飯森山で自刃して果てた、少年たちで構成された「白虎隊(びゃっこたい)」

彼らはどういう経緯で結成され、なぜ自刃したのか? その経緯をたどります。

文久2(1862)年、京都守護職となった会津藩主の松平容保は、尊王攘夷派の浪士たちの取り締まりや京都の治安維持などを担っていました。

松平容保(会津武家屋敷所蔵・Wikipediaより)

その後、慶応3(1867)年の大政奉還後、新政府軍と旧幕府軍が衝突して鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、幕府と近い関係にあった会津藩は旧幕府軍側として参戦します。

ところが、西洋式の最新の武器を扱う新政府軍に太刀打ちできず敗北。この敗北に、会津藩は衝撃を受けます。

兵制改革で生まれた少年部隊

そこで会津藩は、従来の槍隊中心の軍隊から最新のフランス式への改革を決断しました。

装備を洋式に改めて西洋式の鉄砲を購入し、軍隊を年齢別に編成するなどの兵制改革を行います。

そして、年齢別の軍隊には古代中国の神話に登場する神の名前を採用し、白虎隊(16~17歳)、朱雀隊(18~35歳)、青龍隊(36~49歳)、玄武隊(50歳以上)の四隊が編成されます。

白虎隊銅像

このうち、朱雀隊は主力として前線に配置され、青龍隊は国境の警護を任されました。玄武隊と白虎隊は青龍隊の予備隊という位置づけで、主に城中の警護の任務に就きます。

白虎隊は総勢約300人。当時の会津藩では、10歳になると日新館に入学することが義務付けられており、そこで学んだ16、17歳の少年たちによって編成されていました。

彼らは剣術、砲術、水泳、中国古典、さらには天文学などのさまざまな学問を学んでいたといいます。

白虎隊の隊士たちは、将来を嘱望された若者たちでもあったのです。

さて鳥羽・伏見の戦いの後、江戸城が無血開城されると、会津藩も新政府側へ恭順の意志を示しました。

ところが会津藩は新政府から敵視されており、拒否されます。慶応4(1868)年1月、新政府は東北各藩に対して会津追討令を出しました。

これに対して東北諸藩とその周辺の藩は従わず、仙台・米沢が中心となって奥羽越列藩同盟を結び対抗します。戦争は終わっていませんでした。

仙台藩の裏切り、そして出陣命令

さて、新政府軍はすぐさま同盟諸藩へ猛攻撃をかけ、白河小峰城、長岡城、二本松城、福島城を次々と攻め落とすと、勢いに乗って会津へ侵攻します。

すると、ここにきて同盟の中心であったはずの仙台藩が援軍を拒否し、周りの藩からの援助が得られなくなってしまいました。

会津藩単独では兵力・物量いずれにおいても圧倒的に不利で、たちまち窮地に立たされます。

それでも会津藩は、若松城(鶴ヶ城)を死守すべく若松へ通じる街道口に主力部隊を展開しますが、新政府軍の圧倒的な兵力には敵わず撤退を余儀なくされてしまいます。

若松城(鶴ヶ城)

さらに、会津藩は日橋川にかかる十六橋を破壊して新政府軍を足止めしようとしますが、それも間に合わず渡河されました。そして、8月22日には東側の藩境である母成峠も突破されました。

母成峠を越えて猪苗代湖畔を通り、戸ノ口原(会津盆地へと向かう山裾にある高台)を抜けるとそこはもう若松城下です。何としてでも戸ノ口原で敵を食い止めなければなりません。

こうなっては残った兵力を総動員するしかありません。藩主の松平容保は、本来なら前線に投入する予定のなかった白虎隊にも出陣命令を下さざるを得なくなりました。これが、白虎隊の悲劇の始まりでした。

次回、後編に続きます

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