鎌倉殿の9月9日…頼朝や義時たちも菊の節句を楽しんでたの?『吾妻鏡』を読んでみました【鎌倉殿の13人】

Japaaan

鎌倉殿の9月9日…頼朝や義時たちも菊の節句を楽しんでたの?『吾妻鏡』を読んでみました【鎌倉殿の13人】

9月9日は重陽の節句。重陽(ちょうよう)とは陰陽思想にもとづく陽(奇数)の最大数である9が重なることを言います。

この時期は暑い夏を乗り越えた疲労が溜まって心身の調子を崩しやすいことから、邪気払いとして節句を祝い、薬効のある菊酒を呑むなど心身を整えるのです。

どんな行事?9月9日は一年間の大きな節目「重陽の節句」秋の風物詩を菊酒で楽しもう

ところで、別名「菊の節句」とも呼ばれるこのお祝いを、鎌倉殿や御家人たちも楽しんでいたのでしょうか。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、彼らが9月9日をどう過ごしていたのか紹介したいと思います。

菊の花どころじゃない挙兵直後

『吾妻鏡』は伊豆に流されていた源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した平安末期の治承4年(1180年)から第6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)が退位する文永3年(1266年)までの80数年を書いた記録書。

ここでは頼朝の挙兵から2代将軍・源頼家(演:金子大地)の代まで見ていきましょう。

石橋山の合戦に敗れ、身を潜める頼朝たち。当然、花鳥風月など愛でる余裕はなさげ。

治承4年(1180年)9月9日。この時、頼朝らはまだ鎌倉入りするどころか、石橋山の合戦に敗れて再起を図るため房総半島におりました。

盛長自千葉歸參申云。至常胤之門前。案内之處。不經幾程招請于客亭。常胤兼以在彼座。子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎭狼唳給。縡最初有其召。服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月9日条

ざっくり言うと安達盛長(演:野添義弘)が千葉介常胤(演:岡本信人)の元から戻って「喜んで味方します。すぐに合流しますから早く鎌倉へ行きましょう」という返事を持って来ました。

さすがに生きるか死ぬかも定かならぬ状況下で、優雅に菊の花を愛でている余裕なんてなかったことでしょう。

その後、鎌倉入りして坂東に勢力基盤を固めた頼朝。しかしまだまだ節句を祝うゆとりは生まれなかったようで、しばらく9月9日にお祝い事をしている記録は残されていません。

菊の花を楽しむ頼朝たち

初めて重陽の節句(重陽節)をお祝いする記述が出て来るのは文治2年(1186年)。

迎重陽節。藤判官代邦通献菊花。則移南縣之流。被裁北面之壷。芬芳得境。艶色滿籬。毎秋必可進此花之由。被仰邦通之。又結付一紙於花枝。御披覽之處。載絶句詩云々。

※文治2年(1186年)9月9日条

重陽節を迎えて、流人時代からの家人である藤原邦通(ふじわらの くにみち。藤判官代)が頼朝に菊の花を献上しました。

喜んだ頼朝がさっそく御所の北庭に植えると、辺り一面によい香りがあふれます。

御所にあふれる菊の香り(イメージ)

「判官代よ。これから毎年、菊の花を用意しておくれ」

「ははあ」

また菊の枝に文が結びつけてあり、ほどいて見るとそこには絶句の漢詩が詠まれています。

さすがは都の典雅に通じた(若い頃は都の遊び人でした)邦通らしい演出と言えるでしょう。出来れば詠まれた漢詩の内容も書いておいて欲しかったですね。

さて、頼朝が菊の花で喜んだことを知って、乳母の比企尼(ひきのあま)は自分の館に菊を植えさせました。

「これできっと来年は……うふふ」

果たして翌年、比企邸の南庭は美しい白菊の花で覆われます。

比企尼家南庭白菊開敷。於外未有此事。仍今日迎重陽。二品并御臺所渡御彼所。義澄。遠元以下宿老之類候御共。御酒宴及終日。剩献御贈物云々。

※『吾妻鏡』文治3年(1187年)9月9日条

「おぉ、これは見事じゃのぅ」

「実に美しゅうございますね……」

頼朝は妻の政子(演:小池栄子)と共に比企邸を訪れ、三浦義澄(演:佐藤B作)や足立遠元(演:大野泰広)らの宿老も同行。

その日は夜まで酒宴を開き、大いに盛り上がったということです。

こうして始まった鎌倉での重陽節。文治5年(1189年)からは鶴岡八幡宮で臨時祭が執り行われるようになりました(ただしこの年は奥州へ遠征中)。

臨時祭では流鏑馬や競馬(くらべうま)、相撲(すまい)などの奉納試合が行われ、大いに盛り上がったことでしょう。

菊の節句も悪くないかも。頼家の気づき

頼朝が亡くなった正治元年(1199年。建久10年)9月9日は大江広元(演:栗原英雄)が代理で奉幣、翌年も頼家は欠席して北条泰時(演:坂口健太郎)が代参しました。

あまり重陽の節句(というより伝統的な年中行事)に興味がなかったようですが、建仁元年(1201年)9月9日、頼家は御所で重陽の節句を祝っています。

……頃之左金吾出御〔烏帽子。直衣〕。其後有勸盃之儀。給御盃於行景。此間被仰云。爲蹴鞠師範。招請之處。適迎重陽日。始遂對面。故猶前庭以籬菊浮盃。永可契万年者。行景跪盃。金吾自取銀釼。令与之給。

※『吾妻鏡』建仁元年(1201年)9月9日条

頼家は蹴鞠の師匠として招いた紀行景(きの ゆきかげ)と酒を酌み交わしました。

行景と酌み交わした菊酒(イメージ)

「重陽の節句に先生と出会えたのは得難いご縁。前庭に咲く菊の花を盃に浮かべて酌み交わし、末永くお願い申し上げる」

【原文】蹴鞠の師範となして召請するのところ、たまたま重陽の日を迎え、はじめて対面をとぐ。ことさらになお前庭の籬菊(まがきぎく)を盃に浮かべ、永く万年を契るべし。

行景は頼家の歓迎に感謝し、頼家から銀造りの太刀を与えられたのでした。

「まぁ、こうして四季おりおりの節目を祝うのも、悪くはないかも知れんな」

そこで翌建仁2年(1202年)は鶴岡八幡宮の臨時祭に参列したものの、その翌年は急病に昏倒してしまいます。阿野全成(演:新納慎也)を処刑した祟りによるものかも知れません。

9月2日には舅の比企能員(演:佐藤二朗)ら比企一族を滅ぼされ、9月5日には意識を取り戻した頼家。目が覚めた時にはすべてが終わっており、悪あがきもむなしく出家・追放されてしまったのでした。

終わりに

以上、頼朝の挙兵からと頼家の追放まで、9月9日の過ごし方をたどってきました。ちなみに当時の9月9日は陰暦なので、現代の新暦では10月4日に相当します(令和4・2022年)。

♪きれいな花よ きくの花 白や黄色の きくの花
けだかい花よ きくの花 あおぐごもんの きくの花
日本の秋を かざる花 清いかおりの きくの花……♪

※小林愛雄 作詞「きくの花」

菊の花の清い香りは坂東武者らの心をも和らげ、しばしの安息をもたらしたことでしょう。

二節目の「~あおぐごもんの~」とは皇室の御紋を指し、後鳥羽上皇(演:尾上松也)が菊の花を好んで刀に彫らせたことに由来するとか。

果たして頼家の跡を継いだ第3代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)は重陽の節句をどのように楽しんだのか、また改めて紹介したく思います。

※参考文献:

神崎宣武『「まつり」の食文化』角川選書、2005年9月1日 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 3幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「鎌倉殿の9月9日…頼朝や義時たちも菊の節句を楽しんでたの?『吾妻鏡』を読んでみました【鎌倉殿の13人】」のページです。デイリーニュースオンラインは、紀行景比企尼藤原邦通鎌倉殿の13人源頼家カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る