仏にも存在する階級制度 最下層の仏である明王や天部は凡人の味方

心に残る家族葬

仏にも存在する階級制度 最下層の仏である明王や天部は凡人の味方

大抵の人は神社仏閣に行ったことがあるだろう。それぞれ「〇〇観音」「〇〇稲荷」「お不動様」「柴又の帝釈天」など、様々な寺社名、愛称で呼ばれているが、当然各々に特徴がある。特に明王や天部と呼ばれる神々は、私たちのような悟りには程遠く、煩悩にまみれる凡人にとって恐ろしくも頼れる生々しい存在である。

■仏神の階級制度

仏教(主に密教系)には仏と神の階級制度がある。如来、菩薩、明王、天部である。如来は悟りを開いた存在で宇宙の真理を説く。質素な姿で大日如来、阿弥陀如来などが有名。菩薩は如来になるべく修行中の仏候補生。と言われてはいるが、観音菩薩や地蔵菩薩などは衆生を救い、寄り添うためにあえて如来にはならないとされている。弥勒菩薩は56億7千万年後に如来に昇格して衆生を救うことが決定しており、その日に向けて日々修行中である。不動明王で有名な明王は、如来や菩薩の慈悲を無視するような者の煩悩を力づくで滅ぼしてしまう仏法の守護神。それゆえに明王は忿怒の表情を見せている。最下層にいる天部はヒンドゥー教などインドの神々を仏教が取り込んだ。その中には悪神、邪神であった神も多くいる。悟りを開いた如来とそれに近い菩薩は穏やかで優しいが凡人には遠く、明王・天部は恐ろしい反面、あらゆる意味で煩悩を断ち切れないの凡人に近い存在といえる。

■最下層の神々

真言密教の胎蔵曼荼羅は本尊・大日如来を中心に重層的に広がる構造となっている。その最も外側に位置するのが天部の住む「外金剛部院」である。伊舎那天、荼吉尼天(吒枳尼天 ダキニ)といったヒンドゥー教の神々は人間の手足を咥えていたり、元々の悪神としてのおぞましい姿で描かれている。曼荼羅の哲学としては欲求の赴くままに生きる動物の姿、人間の本能の部分の表現といえる。後にこれらの神々は仏教伝来以前の、日本古来の神祇と組み合わせられ、独特の神仏習合という形を取り様々な姿に変化していった。
荼吉尼天はヒンドゥー教の神・ダーキニーという人間の心臓や肝を食べる恐るべき神だった。大日如来が大黒天の姿に変えて改心させ、仏法の護法神となったという。日本に渡ると稲荷信仰と神仏習合し稲荷神と同一視されている。その大黒天も「大黒さま」として親しまれているが、元々はインドの暗黒神である。大黒とは「マハーカーラ(暗黒)」を意味する。

「弁天さま」の弁財天と宇賀神なる神が習合した宇賀弁財天という神がいる。この宇賀神なる神は翁の顔に蛇の身体という人頭蛇身の異形の神であるが、その真言を唱えればあらゆる願いが叶うという。蛇は絶大な力を持つとされ蛇体の姿をした神はかなり多い。荼吉尼天にも蛇が巻き付いている。このように天部は出自が悪神であったり異形の姿であったり、仏神の階級では最下層の存在だが、それだけ阿弥陀如来や大日如来より人間に近く、安全、安産、金運、出世など、現世利益の面で信仰を集めてきた。

■明王・天部のご利益と祟り

仏教(主に密教系)には荼吉尼天法、孔雀明王法など、天部・明王の力を借りた様々な修法が伝えられた。秘仏「大元帥明王」を本尊とし「敵国降伏」を祈願する真言密教の秘儀「大元帥法」は、平将門の乱、元寇、日露戦争などに効力を発揮したという。またこの修法で第二次大戦中にルーズベルト大統領を呪殺したなどいうオカルトめいた怪談も語られている。大元帥明王も子供を喰らう悪鬼だったが、仏教にふれて改心して国土守護の明王となった。やはり蛇を纏い、忿怒の形相で二匹の邪鬼を踏みつけている。
天部・明王を戴くこうした修法は、仏教本来の現世の執着を断ち、悟りに至る道とは遠いと思える。しかし欲望を叶えるための秘術は現世に生きる凡人の正直な思いだろう。市井の庶民も同様の事をやっている。例えば受験合格祈願とはつまりは競争相手に勝つための祈願である。これはそうと意識はしなくとも、敵を調伏するための呪いと同じことといえる。

強烈な力を持つとされる天部・明王の神々だが、その代わりに祀り方を間違ったり、無礼を働くと祟りがあるとして恐れられた。「聖天さん」こと歓喜天は天部の中でも凄まじいご利益があるとされる。その反面修法に少しでも間違いがあったりすると命にも関わるという。天部は如来や菩薩に比べて人間に近いので決して寛容ではない。そして人間に近いからこそ、安産祈願や受験合格祈願といった具体的な願い事に力を発揮してくれるとされたのである。

これに対して広大な慈悲を持つ阿弥陀如来や、宇宙の真理そのものである大日如来、天照大神の祟りなどという話は聞いたことがない。一休が蓮如を訪ねた話がある。蓮如が留守だったので本堂で待つことにした。蓮如が戻ると一休は阿弥陀仏像を枕に居眠りしていた。蓮如は「わしの商売道具で寝るな」と言い大笑したという。これが歓喜天や荼吉尼天なら怒りを買い、恐ろしい祟りが襲っただろう。もっとも一休や蓮如ほどの、ほぼ菩薩の領域にいるような覚者に天部の呪いが通じたとは思わないが。

天部、明王ら俗世に関わる神々は、それだけ世俗的な感情があるとされたのだ。祟りや呪いは、より親しい神々への畏敬の念の現れでもある。

■仏神にあふれた日常

冠婚葬祭、ご祈願、お守り、おみくじ、パワースポット…神社仏閣は現代社会においても日常生活に密着している。それにも関わらず、多くの人はそれぞれの違いに無頓着ではないだろうか。神仏習合という日本独特の信仰体系は興味深く面白い。私たちの周りには仏や神がたくさんいるのだ。また祟りや呪いなどという現象の実在はともかく、人知を超えた存在への畏敬の念は謙虚に持つべきだろう。真摯な気持ちで手を合わせてもらいたい。

■参考資料

■山本ひろ子「変成譜 中世神仏習合の世界」講談社(2018)
■山本ひろ子「異神」平凡社(1998)
■「密教の本」学習研究社(1992)

「仏にも存在する階級制度 最下層の仏である明王や天部は凡人の味方」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る