どうか恩賞を…頼朝挙兵以来の古参勇士・天野遠景が訴えた武勇伝を紹介【鎌倉殿の13人】

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どうか恩賞を…頼朝挙兵以来の古参勇士・天野遠景が訴えた武勇伝を紹介【鎌倉殿の13人】

晴。天野民部入道蓮景〔俗名遠景〕捧款状。先進相州。是恩澤所望也。始自治承四年八月山木合戰以降。計度々勳功。載十一箇條之述懷。大官令執申之。

※『吾妻鏡』建永2年(1207年)6月2日条

ある晴れた日のこと。蓮景(れんきょう)なる僧侶が、北条義時(演:小栗旬)に書状を提出しました。

「……どうか、これを鎌倉殿に」

書状にはこれまで自分が立てた勲功を並べられ、これに報いる恩賞を要求する内容でした。

「天野殿……」

義時に書状を差し出し、恩賞を願った蓮景(イメージ)

蓮景はその俗名を天野遠景(あまの とおかげ。藤内民部丞)と言い、かつて源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した時以来の古参です。

並べられた勲功は実に11箇条。残念ながらその文面は現存していないため、遠景がどの勲功について恩賞を訴えたのかは分かりません。

ただ少なくとも、歴戦の勇士に対して満足できるだけの恩賞が与えられていないのは間違いなさそうです。

そこで今回は、天野遠景が立てた勲功について紹介。鎌倉殿の御為に尽くしてきたその生涯をたどっていきましょう。

頼朝の挙兵直後

天野遠景は久安2年(1146年。『幕府諸家系譜』による)、伊豆の豪族・藤原景光(ふじわらの かげみつ)の子として誕生。

伊豆国田方郡天野(現:静岡県伊豆の国市)の地を領したため、天野を苗字に称しました。通称は藤内(とうない)、弟に天野平内光家(へいないみついえ)がいます。

挙兵した頼朝たち。当時は空前絶後の大博打だった。『頼朝一代記絵巻』より

治承4年(1180年)の頼朝挙兵に兄弟で付き従い、山木兼隆(演:木原勝利)討伐や石橋山の合戦で奮闘。

こと石橋山の敗走場面では、追撃する大庭景親(演:國村隼)の大軍に矢を射かけて足止めする命懸けの活躍を見せました。

伊東祐親を生け捕りにする

伊東次郎祐親法師。爲属小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭……。

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月19日条

石橋山の惨敗からおよそ2ヶ月弱、見事に捲土重来を果たした頼朝は、京都から攻めてくる平家の追討軍を迎え撃ちます。

逆境にも主君を見捨てず、捲土重来を果たした。歌川国芳「隅田川筏渡ノ図」より天野藤内(遠景)

そんな中、遠景は平家に合流しようとしていた伊東祐親(演:浅野和之)を生け捕りにして頼朝へ引き渡しました。

命ばかりは助けられた祐親でしたが、恥辱に耐えられず養和2年(1182年)に自害。『曽我物語』では処刑されたと言います。

一条忠頼を暗殺

……天野藤内遠景承別仰。取太刀進於忠頼之左方。早誅戮畢。此時武衛開御後之障子。令入給云々。其後。忠頼共侍新平太。并同甥武藤与一及山村小太郎等。自地下見主人伏死。面々取太刀。奔昇于侍之上。縡起於楚忽。祗候之輩騒動。多爲件三人被疵云々。既參于寢殿近々。重成。重朝。結城七郎朝光等相戰之。討取新平太。与一畢。山村者擬戰遠景。相隔一ケ間。取魚板打之。山村顛倒于縁下之間。遠景郎從獲其首云々。

※『吾妻鏡』元暦元年(1184年)6月16日条

平家討伐で活躍した一条忠頼。勝川春亭筆

甲斐源氏の有力者・一条忠頼(演:前原滉)を粛清するため、躊躇っている工藤祐経(演:坪倉由幸)に代わって背後からバッサリ。

「てめぇ、何しやがる!」

庭先に控えていた忠頼の郎党たちとも戦い、最後は巨大な俎板(まないた。現代のものとは違い、足の着いた小さなテーブル状のもの)を振り回してぶっ飛ばしました。

使えるものは何でも使って勝つのが坂東武者、その面目躍如と言ったところでしょうか。

平家追討の大功を賞される

……又北條小四郎殿。并小山小四郎朝政。同五郎宗政。齋院次官親能。葛西三郎淸重。加藤二景廉。工藤一臈祐經。宇佐美三郎祐茂。天野藤内遠景。新田四郎忠常。比企藤内朝宗。同藤四郎能員。以上十二人中被遣慇懃御書。各在西海殊抽大功之故也……

※『吾妻鏡』元暦2年(1185年。文治元年)3月11日条

蒲冠者源範頼。歌川貞秀『武家百人一首』より

その後、源範頼(演:迫田孝也)に従って平家討伐に武功を重ねた遠景たち12名は、みんな表彰されました。

北条義時・小山朝政(演:中村敦)・長沼宗政(演:清水伸)・中原親能(演:川島潤哉)・葛西清重(かさい きよしげ)・加藤景廉(かとう かげかど)・工藤祐経・宇佐美祐茂(うさみ すけもち)・天野遠景・仁田忠常(演:高岸宏行)・比企朝宗(ひき ともむね)・比企能員(演:佐藤二朗)。

この時は力を合わせ、心ひとつに戦ったことを賞されましたが、やがていがみ合うようになるとは誰が予想したでしょうか。

九州平定を任され、鬼界ヶ島の残党を討伐

九州方面での戦いぶりが評価されたのか、遠景は文治2年(1186年)12月10日付で鎮西九国奉行人(九州総追捕使)に任じられます。

……今日。藤原遠景爲鎭西九國奉行人。又給所々地頭職等云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)12月10日条

鬼界ヶ島へ遠征する遠景たち(イメージ)

文治3年(1187年)9月22日には宇都宮信房(うつのみや のぶふさ)と共に鬼界ヶ島(きかいがしま。南西諸島の総称)へ逃げ込んだ源義経(演:菅田将暉)の残党を討伐するよう命じられました。

難儀の末に文治4年(1188年)5月、鬼界ヶ島を占領。その後も九州各地の平定に尽力しますが、後に奉行人の役を解かれて鎌倉へ帰還します。

これはあまりに強引なやり方が現地勢力の反感を買ったためとも、あるいは逆に巧みな統治によって一大勢力を築いてしまい、頼朝に危険視されてしまったためとの説もあるようです。

梶原景時・比企能員の粛清に加担

建久10年(1199年。正治元年)に頼朝が亡くなると出家して蓮景と号し、同年10月には梶原景時(演:中村獅童)の弾劾状に署名を連ねます。

建仁3年(1203年)には北条時政(演:坂東彌十郎)の命により、比企能員を討つことに。

比企能員を取り押さえて殺す天野遠景(右)と仁田忠常。

時政「おめぇら、今すぐ兵を集めろ!」

蓮景「ハハハ、あんな老いぼれ一匹殺すのに、軍勢なんか要らねぇだろ。アンタの館へ招いてサクッとヤっちまおうぜ。なぁ四郎(仁田忠常)」

忠常「よし、やろう」

という訳で仁田忠常とコンビで能員を暗殺。棟梁さえ殺(と)ってしまえば、あとは烏合の衆。一気呵成に比企一族を攻め滅ぼしたのでした。

終わりに

以上、天野遠景の武勇伝について駆け足で紹介してきました。

果たして恩賞の訴えが聞き入れられたのかは分かりません。その後フェイドアウトした遠景の没年は不詳、『幕府諸家系譜』によると承元2年(1208年)8月15日、63歳で亡くなったと言われます。

往時を懐かしむ遠景(イメージ)

その後、遠景の子孫は繁栄してやがて三河国(現:愛知県東部)へ移り、戦国大名の松平(まつだいら。後の徳川)氏に仕えました。

【天野氏略系図】
遠景-政景-景経-遠時-経顕-経政-景隆(近江守)-秀政-景政-景顕-景保-景秀-定景-遠直-景行-遠房-景隆(甚右衛門)-康景(家康に仕える)……
※『寛政重脩諸家譜』巻第八百七十七「藤原氏 爲憲流 天野」より

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にはもう出てこないでしょうけど、遠景のようなマイナー(と言ったら失礼ですが……)御家人たちの活躍にも目を向けてみると、よりいっそう鎌倉時代を堪能できることでしょう。

※参考文献:

鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版、1999年4月 関幸彦ら編『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年12月

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