最上義光の死後あっという間に取り潰された最上一族!後継争いで紛糾した「最上騒動」とは? (2/3ページ)

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山形城。桜の季節には美しくライトアップされる

そのためか、現在の山形市には「銅町」「鉄砲町」などの地名が今も残っています。

そんな山形藩ですが、最上一族の最盛期はここまでで、跡継ぎ問題が発生します。

本来なら嫡子(長男)である義康が継ぐはずでしたが、義光は次男の家親に家督を継がせようとします。家親は徳川家康に気に入られているから、というのが理由でした。

これが原因で親子間の対立が勃発し、ついに義光は義康を殺害します。

実はこの殺害は、義光と義康それぞれに仕えていた家臣が、最上氏を転覆させるために仕向けたものでした。その後、企みがばれたため主犯の家臣一族は処刑されています。

こうして結局、2代目藩主は次男である家親が継いだのですが、その後も「最上騒動」は終わりませんでした。

2代目の不審死、3代目で改易

さて、2代目藩主となった家親ですが、36歳という若さで病死しました。彼は猿楽を見ている最中に苦しみ出して死んだことから、義康派の残党による毒殺ではないかと言われています。

藩主が亡くなったことで、3代目として家親の嫡子である義俊が後を継ぎますが、彼はまだ13歳という若さでした。よって家中を治められず、抗争は続いていきます。

さすがに見かねた幕府が、騒動に介入して和解案などを提示しますが、それでも騒ぎは収まりませんでした。幕府側も「いい加減にしろ」ということで改易を命じます。

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