最上義光の死後あっという間に取り潰された最上一族!後継争いで紛糾した「最上騒動」とは? (3/3ページ)
13歳で藩主にまつり上げられたあげく、周囲の抗争のせいで改易処分となってしまった最上義俊は、1万石で近江に移されて病死しました。
こうして、最初は57万石あった山形藩は、どこをどう間違えたのか、たちまち衰退していきました。
戦国時代から江戸時代への過渡期は、こういうお家騒動や、領主による統治の失敗など、「統治」に慣れない領主によるトラブルがたくさんあったようです。
戦国武将としては有能でも、統治者としてはあまり才能がない人が多かったのもあるでしょうが、こうした統治システムの前例がなかったことも原因でしょう。
跡継ぎに関するルールなどがもっとしっかりしていれば、最上騒動は起きなかったかも知れません。
ちなみに山形藩はその後、地域ごとにバラバラにされて、複数の大名による分割統治のような形になりました。このうち、酒井忠勝とその弟によって統治された地域では圧制が敷かれたり、お家騒動が勃発したりして、かの松平信綱を呆れさせたりしています。
こうしたトラブルを経て、「泰平の世」は作られていったんですね。
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