武将・楠木正成はこうして「軍神」に!奇策が炸裂しまくりの千早城の戦い【前編】
「軍神」挙兵す
日本史上、屈指の英傑であり伝説の軍神とされる楠木正成(くすのきまさしげ)。
幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[その壱]彼の伝説のひとつである「千早城の戦い」について見てみましょう。
時は鎌倉時代末期、「元寇」を何とか撃退した幕府でしたが、御家人たちに分け与える土地が得られなかった事から、恩賞が十分にもらえなかった御家人たちは幕府に不満を持つようになりました。
後醍醐天皇は、これを幕府から朝廷に政治の中心を取り戻す好機と見て倒幕計画を画策します。
しかし、密告により陰謀が発覚し、計画の首謀者として側近の日野俊基が処刑されてしまいます。
身の危険を感じた後醍醐天皇は京を脱出し3千の軍勢で笠置山に立てこもります。
これに対して、幕府軍は鎌倉から20万の大軍を送り込んで総攻撃。さすがに持ちこたえられず、捕えられた後醍醐天皇は隠岐島へ配流となりました。
この倒幕計画は失敗に終わったと思われましたが、これに呼応して挙兵する者が現れます。楠木正成もそのうちの一人でした。
20万人対千人正成が挙兵して立てこもった千早城は、四方の殆どを深い谷に囲まれた天然の要塞でした。
正成は城に立てこもり敵の大軍を釘付けにしている間に、諸国の御家人や豪族たちが挙兵し倒幕への動きが広まるのを待つ作戦に出ます。
とはいえ、押し寄せてきた幕府軍は20万の大軍で、一方の楠木軍は総勢千人。圧倒的に不利な状況でした。
幕府軍の一部の兵は、この圧倒的な兵力差で総攻撃すればすぐに落ちると考え、先駆けの恩賞をもらおうと我先にと力攻めで攻め込みます。
しかし、待ち構えていた楠木軍は櫓からの落石攻撃を行い、さらに矢を射て幕府軍を撃退します。
全ては想定内幕府軍はいったん退却し、力攻めでは被害が大きくなると考え、水の補給を断つ作戦を採用しました。
千早城は山頂にあるので楠木軍は山の麓で水を補給するだろうと考え、そこを狙い撃ちすることにしたのです。
そこで水辺近くに兵を配置し、楠木軍が現れるのを待つ作戦にでます。
しかし、正成は千早城での戦いが長期戦になることを見越して水の補給対策を十分にとっており、山中に秘密の湧き水を確保していたほか、建物の軒を改造して雨水を大量に貯められる工夫もしていました。
そのため、いつまで経っても楠木軍が現れず、当てが外れた名越時見率いる幕府軍は次第に警戒を解いて油断するようになります。
これを見た正成は、弓の使い手300人を山から下ろして夜襲を仕掛け、不意を突かれた名越軍を追い散らしました。
【後編へ続きます】
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan