和田義盛が源実朝におねだりしたものとは?『吾妻鏡』を読んでみると…【鎌倉殿の13人】

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和田義盛が源実朝におねだりしたものとは?『吾妻鏡』を読んでみると…【鎌倉殿の13人】

「鎌倉殿に、一つお願いがあるんです」

自宅へ遊びに来てくれた源実朝(演:柿澤勇人)に、そう言った和田義盛(演:横田栄司)。何かと思ったら「親しみを込めて、武衛(ブエイ)と呼んでいいですか」とのこと。

ご存じ武衛とは兵衛佐(ひょうゑのすけ)の唐名で、実朝に対する呼び名としては(格下の称号で呼ぶのは)失礼に当たるため当然却下。

「そうだそうだ、みんな武衛だ」

投げやりな三浦義村(演:山本耕史)の言葉に、古き良き時代の終焉を感じたのは筆者だけではないでしょう。

※念のため補足すると、親しい相手を武衛と呼ぶのはNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」によるオリジナル設定(要するに創作)です。

ところで、この義盛による実朝へのおねだりには元ネタがあります。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、武衛呼びなんていう(不敬ながら)可愛い?ものではなく、上総国(現:千葉県中部)の国司推挙を願ったのでした。

国司は国の支配権を司る重要な役職。かつて源頼朝(演:大泉洋)の挙兵以来、歴戦の老勇者に相応しい恩賞と言えるでしょうが、果たして……?

上総国司をねだる義盛。叶えてやりたい実朝だったが……

和田左衛門尉義盛可被擧任上総國司之由。内々望申之。將軍家被申合尼御臺所御方之處。故將軍御時。於侍受領者可停止之由。其沙汰訖。仍如此類不被聽。被始例之條。不足女性口入之旨。有御返事之間。不能左右云々。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)5月12日条

【意訳】和田義盛が内々に(こっそり、実朝に直接)「上総介に推挙して下さい」とおねだりしてきました。上総介とは上総国の副官(上総国は長官を皇族が務める習わしなので、実質トップ)です。

さて、どうしたものか。なるべく願いを叶えてあげたい実朝は、母・政子(演:小池栄子)に相談しました。

「和田殿のワガママを認めてはなりませんよ」実朝を戒める政子。菊池容斎筆

「侍(御家人)を受領(ずりょう。国司)に推挙することは、頼朝様の時代に禁止されています。それでも改めて法律を変えられるというなら、おなごの私がとやかく言うことではありません」

義盛一人のために特例を認めてしまうのはもちろん、都合よく法律を変えたら、後に弊害が出てくるかも知れません。実朝は考え込んで何も言えなくなってしまうのでした。

左衛門尉義盛上総國司所望事。以前者内々望也。今日已付款状於大官令。始載治承以後度々勳功事。後述懷所詮一生餘執只爲此一事之由云々。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)5月23日条

お上品な鎌倉殿は、きっと(政子や義時たちに強く言えず)悩んでいるのだろうな……話がなかなか通らないので、義盛は大江広元(演:栗原英雄。大官令)に嘆願書を提出しました。

「お前も知っているだろ?俺ァ挙兵以来、ずっと戦って来たんだよ。あの時もこの時も……上総国司くらい、推挙してくれたっていいじゃないか。なぁ?」

ズラズラと書き連ねられた手柄の数々。そして書状の最後に「これが一生最後のお願いだ。老い先短くなって、子孫に何か遺してやりたいんだよ、なぁ?」と書かれています。

(……やれやれ)

取り次いだ広元の苦い顔が目に浮かぶようですね。

和田左衛門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)11月27日条

「のぅ、相州(北条義時)よ。和田の件、何とかしてやりたいのじゃが……」

何とか義盛の願いを叶えてやりたい実朝だが……(イメージ)『國文学名家肖像集』より

「なりませぬ。亡き大殿(頼朝)からの慣例にございますれば、ひとたび例外を設ければ、和田殿一人では収まらぬようになります」

「そうですよ。和田殿は三浦一族の長老。これ以上力を持たせれば平六殿も抑えが利かず、鎌倉を脅かしかねません」

「しかしなぁ、やはり何とかならぬかのぅ……」

そこで実朝は義盛に「なかなか難しいが、どうにか望みを叶えてやりたいと思っておる。もう暫く待っていてくれないか」と内々に伝えました。

実朝から優しい言葉をかけられ、義盛の喜ぶまいことか。「鎌倉殿の御心さえ左様なれば、きっとお言葉に適いましょうぞ」と事態の進展を心待ちにするのでした。

ついに諦めた義盛、残念がる実朝

……が、ウブな実朝が政子&義時の老獪姉弟に太刀打ちできるはずもなく、いたずらに歳月が流れるばかり。

最初のおねだりから2年半余が経ち、年の瀬も迫る建暦元年(1211年)12月20日。義盛はついに上総国司を諦めたのでした。

和田左衛門尉義盛上総國司擧任所望事。已断餘執訖。可返給彼款状之由。以子息四郎兵衛尉相觸廣元朝臣。先日進置御前之上。不能左右之趣。乍令返答。即以披露之。太不叶御意趣。暫可相待之旨。被仰含之處。今及此訴。偏是奉輕上計之所致也云々。

※『吾妻鏡』建暦元年(1211年)12月20日条

「……分かりました。きっと鎌倉殿は、それがしと尼御台・相州殿の板挟みになって苦しんでおいでじゃったろう。誠に申し訳ないことをしてしまった」

上総介への任官を断念した和田義盛。義時らがいる限り、実朝が板挟みで苦しむだけだから……(イメージ)歌川国芳筆

そこで四男の和田四郎兵衛尉義直(しろうひょうゑのじょう よしなお)を派遣して、嘆願書を差し戻してもらうよう申し出ます。

しかし、そんな義盛の申し出をしって実朝はがっかり。確かに時間はかかっていて申し訳ないけど、本当に叶えてあげたかったのに……思わず愚痴をこぼしました。

「そうか……大江にも骨折りしてもらっていたのだが、やはり私には無理だと見限られてしまったようだ。無理もないが、やはり信じて待っていて欲しかったな……」

「自分から言い出しておきながら、あっさり取り下げるとは……誠に御所を軽んじた振る舞い、和田殿にも困ったものだ」

「相州よ、もう言うでない」

ずっと上総国司の件を阻んでいた張本人がよう言うわ……苦虫を嚙み潰したような実朝の顔が目に浮かびます。

終わりに

この一件より義盛と北条氏の間にわだかまりが生じ、やがて建暦3年(1213年)に和田合戦が勃発。義盛はじめ和田一族は滅ぼされてしまうのでした。

「君側の奸・北条相州を討たいでか!」憤る和田一族(イメージ)歌川芳員筆

気の毒ではあるものの、いくら仲良しだからと言って義盛だけ特例を認めてしまうのは政治の秩序を脅かしかねません。

子供の時は「義時は意地悪で、挑発の末に義盛を滅ぼした悪い奴だ!」と思っていましたが、歳をとってから改めて見ると義時は政治の公平性を守っただけのこと。

いつまでも鎌倉殿となぁなぁで楽しかった古き良き時代は去り、古参の老勇者は淘汰されてしまったのでした。

大河ドラマでも史実でも、仲良しだった和田義盛と源実朝。一緒の時間が楽しいほど、別れは辛く悲しいものとなることでしょう。

『吾妻鏡』だと、義盛は寵愛していた(さっきも登場した)和田義直の討死を悲しんで自暴自棄となり、泣き叫びながら駆けずり回って討死します。

「鎌倉殿の13人」における義盛は、最期に実朝を「武衛、武衛……っ!」と呼び叫びながら討たれていくのでしょうか。かつて主君をブエイ(武衛)と呼んだ上総介広常(演:佐藤浩市)が、哀れに斬られていったように(第15回放送「足固めの儀式」より)。

果たして三谷幸喜がこの凄惨な場面をどのようにアレンジするのか、今から注目しています。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月

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