【現地へ行ってみた】鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の落馬の地とされている地域はどんなところなのか?
源頼朝といえば、鎌倉幕府の初代将軍にして、武家文化の礎を作った人物といっても言い過ぎではない人物ですが、意外なことに彼の死因については鎌倉幕府の唯一の公式な記録である『吾妻鏡』にも詳しく触れられていません。
同書で記録されている頼朝に関する記録は、1195(建久六)年12月22日に頼朝が旧友の元へ遊びに行った際のものです。一方、他の記録から見ても間違いないであろう頼朝の命日である1199(建久十)年1月13日についての記載は残されていません。
謎の多い頼朝の死因については、従来より様々に議論されていましたが、現段階では、落馬が元で怪我をして寝込んだ、あるいは落馬の原因となる病を発症したというのが有力なようです。
現在、源頼朝が落馬したとされる地域は、神奈川県藤沢市にあるJR辻堂駅南口から歩いて10分ほどの場所に比定されています。
頼朝が落馬したとされるの辺りを、友人と少し歩いてみました。駅が近いために住宅や会社が立ち並び、バス通りと並行に走る路地で人通りはありますが、残念ながら、当時の様子をうかがわせる痕跡は一切残されていません。
ただ、この道を海岸線と平行に西に進めば、1198(建久九)年12月27日に催された相模川の橋供養の場所となり、東に向かえば鎌倉までの帰路となります。昔から人の往来が多い地域ではあったようです。
落馬の地より少し歩くと集落がありました。「辻堂村」です。
村の中心である鎌倉道との十字路にある寺は海龍山観音院宝泉寺(神奈川県藤沢市辻堂元町3)。
寺伝によると、創建は建久年間(1190~1199)とされ、源頼朝の勧請によるものといいます。 正観音を本尊とし、地元では「南の寺」として親しまれています。かつてこの寺は「四ッ辻のお堂」「辻御堂」と呼ばれており、それが転じて「辻堂」となり、現在の「辻堂」という地名の由来となりました。
村の東西南北には道祖神が祀られており、現在でも大事に扱われています。
辻堂村には、鎌倉道、藤沢道、大山道、東海道、京・鎌倉往還などの古道が残り、現在も生活道として使われている場所が多くあります。
鎌倉時代、辻堂および茅ヶ崎を含む地域は「八的ヶ原」(やまとがはら)(後に「八松ヶ原(やつまつがはら)」)と呼ばれていました。古代より平坦な砂地で、鎌倉時代に弓の練習場として八つの的が置かれたことに由来します。
また、現在はマンションの一角にひっそりとある熊の森権現は、畠山重忠が塔を奉納下と伝えられています。塔の右側には、「柴松のくずのしげみに妻こめてとなみが原に牡鹿鳴くなり」という西行の歌詞が刻まれており、この句は、西行が1186(文治二年)、東大寺再建のための勧進行脚の際にここにあった根上がりの松に腰かけて詠んだものとされています。
「平家物語」「源平盛衰記」 など舞台にもなったこの地は、その後、 足利尊氏の軍勢が北条時行軍を破った「辻堂・片瀬原の合戦」の地にもなるのです。
参考
貴志 正造 訳注『全訳吾妻鏡』(新人物往来社 1976)
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