見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか

心に残る家族葬

見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか

Googleでニュース検索してみると、例えば、9月2日の『長野日報』の、昭和27(1952)年に火災に見舞われたものの、奇跡的に焼け残った、推定樹齢90年以上とされる、長野県飯島町の飯島小学校内に「見守り桜」が、近いうちに伐採されるという記事がヒットした。また同日、ロボットやA I関連情報サイトの『ロボスタ』では、昨今の「少子高齢化」「孤独死」などの社会情勢を鑑みて、ひとり暮らしの65歳以上の老人を、離れて暮らす家族や、賃貸住宅の大家さんなどが精神的・経済的負担の少ない形で「見守る」。すなわち、対象となるお年寄りの、起床時間や就寝時間などの「活動」状況を小型の機械が「見守り」、その状況を逐一、家族や大家さんなどにLINEメッセージなどで送信する、「孤独死防止・見守りシステム」を、防犯機器や介護用機器およびシステムの企画・開発・製造・販売を手がける、静岡県浜松市の株式会社エストが新発売するというものもあった。このように、今日我々が普通に用いる、優しさ、または心配な気持ちで、子どもたちや老人などのか弱い存在の人々を「見守る」という言葉では、到底言い尽くせない「見守り」のエピソードがある。

■宮本武蔵の墓(東の武蔵塚)に刻まれた遺言「獨行道(どっこうどう)」


遺言で「我 君侯(くんこう)二代に仕え/その恩遇を蒙ること頗(すこぶ)るふかし/死せむ後も太守江戸参勤の上下を拝せむとおもふ/願(ねがわ)くはその往還の目立つ處(ところ)に葬れよ」、即ち、忠利(ただとし、1586〜1641)・光尚(みつなお、1619〜1650)と、熊本藩の細川家に二代に渡って仕え、多大な恩恵を賜った。それゆえ、自分が亡くなった後も、お殿様の参勤交代の行き帰りを拝したいと思う。できるなら、その行列が行き交う大通りの目立つところに葬ってくれ…と語ったということで、甲冑(かっちゅう)、そして六具(ろくぐ、胴・籠手(こて、上腕部から手の甲までを守る)・袖・脇楯(わいだて、体の右に当て、体と鎧の隙間を守る)・脛楯(はいだて、大腿部を守る)・脛当(すねあて、脛を守る)の6つでひと揃いの武具)で身を固めた完全武装の格好で、立ったままの姿で葬られた。更に、今日の熊本市と菊池郡大津町を結ぶ主要道である大津(おおづ)街道に面した場所に、「兵法天下一/新免(しんめん)武蔵居士石塔/正保二 乙酉 年五月十九日」と正面に刻まれた墓に葬られ、慶応3(1867)年の大政奉還によって、参勤交代が廃止になるまで、細川家の参勤交代を見守り続けていたと伝えられる人物がいる。それは剣豪として名高い、宮本武蔵(1584〜1645)だ。

「東の武蔵塚」とも呼ばれるこの武蔵の墓は現在、二本の刀を手にした武蔵のブロンズ像や、遺書とも言える自身の信条を死の7日前に記した「獨行道(どっこうどう)」(1645年)の自筆を刻んだ記念碑が建てられ、美しい日本庭園や茶室が整えられた「武蔵塚公園」(熊本市北区龍田弓削1丁目)の中で、大切に祀られている。とはいえ、武蔵の死後、天下泰平の徳川の世に入った頃には、若者盛りの武蔵が技を磨き、活躍した戦国時代において主流となった、接近戦による一対一の戦いの「本質」や「心」は忘れ去られる一方だったという。つまりそれは、単なる「勝ち負け」を決める行為ではなく、絶対に勝たねばならなかった。つまり勝つことで命を長らえることができるばかりではなく、たとえ生き延びられたとしても、「負けた」ことが「もののふ」として「生きること」の社会的な死を意味するものであった。こうした苛烈な現実が「リアル」だった頃とは異なり、技の「型」の美しさや、当時と比べれば抽象的かつ曖昧、そして美化された「精神論」が剣術の世界の主流になってしまったのだ。

そうした中、埋葬後に松や杉が植えられ、「武蔵山」とも称されていた、大体1〜2反(約300〜600坪)ほどの塚周辺は、「武蔵」の存在や戦いそのもののありようが忘れ去られていたことと連動していたのだろう。一般の人々の立ち入り制限が解除された。すると近在の人々は、鬱蒼とした木々を伐採した。その結果、牛や馬や人々が雑多に行き交うようになり、墓の威厳が失われてしまった。それを憂慮した武蔵の弟子の末裔たちが寛政(1789〜1801年)の頃、奉行所に訴えた。それ以後は人馬の侵入を制限させ、樹木を植え直し、埋葬当時の様子を再現させたという。もしその努力がなされなかったとしたら…「東の武蔵塚」は荒廃し、今日まで存在していなかったかもしれない。

■宮本武蔵の墓は東の武蔵塚以外に西の武蔵塚や岡山県美作市にもある


そして「東」があれば当然、「西」もある。「西の武蔵塚」は、晩年の武蔵の弟子だった寺尾求馬助(もとめのすけ、1621〜1688)一族の墓所(熊本市西区島崎7丁目)内にある、「貞岳玄信居士」と刻まれた自然石のことだ。若い頃の武蔵は剣術修行のために諸国を漫遊し、多くの人々と戦ってきた。特に、慶長8(1603)年の江戸幕府成立当時、敗れた西軍側についていた大名の家は、取り潰しに遭ったり、石高を減らされたりした。それに伴い、多くの侍が浪人として世に放り出された。食い扶持を失った彼らは、新たな主君を求める必要がある。そこで今日の「シューカツ」ではないが、剣の達人として名の通った武蔵に勝ったという、仕官に有利な「スキル」や「アピールポイント」、「経験」…を自分のものとしたい浪人たちから、繰り返し狙われていたという。それゆえ死後もなお、武蔵に恨みを抱いていた者は多く存在していた。そうした人々に墓所を荒らされる危険があるとして、「東」には太刀だけを埋め、「西」に遺体を埋葬した。しかも「武蔵の墓」と気づかれないように、生涯独身だった武蔵だったが、先の名前の左側に「心月清円信女」という架空の人物の名前も彫ったという。

さらに、かつては熊本藩主で、武蔵を迎え入れた細川家の菩提寺だった泰勝寺(たいしょうじ)の跡地で、現在の「立田(たつた)自然公園」(熊本市中央区黒髪4丁目)内に残されている、五輪塔の「宮本武蔵供養塔」こそが武蔵の墓だという説もある。

その他、武蔵の生誕地という説がある岡山県美作市宮本968にある「武蔵(むさし)神社」の裏手に、武蔵の祖父、両親の墓と共に、熊本・弓削の「東の武蔵塚」から分骨されたという説がある、「賢正院玄信二天居士 宮本政名武蔵之碑」と刻まれた墓もある。

■宮本武蔵が残した数々のエピソード

宮本武蔵といえば、その62年の人生の大半は野に在り、そこで繰り広げられた60回余りの勝負に一度も負けなかったと伝えられる、ヒーロー性やカリスマ性を強く帯びた剣豪だ。特に、待ちくたびれて苛立った佐々木小次郎(?〜1612)の前に、「待たせたな!」という言葉とともに悠然と登場した後、目にも止まらぬ見事な技をもって、「小次郎、敗れたり!」とひと声発し、見事な勝利を収める巌流島(がんりゅうじま)の戦い(1612年)がとても有名だ。

このように武蔵は、歌舞伎の『敵討巌流島(かたきうちがんりゅうじま)』(1727年)に始まり、奇才・歌川国芳(1798〜1861)の浮世絵、『宮本武蔵の鯨退治』(1847年頃)。そして現在に至るまで、何度も小説や芝居、映画やドラマの主人公として描かれ、時には昭和のザ・ドリフターズのコントの「ネタ」にもなっていた。その中でもとりわけ、「国民的」に愛されてきたものは、作家・吉川英治(1892〜1962)の『宮本武蔵』(1935〜1939年)。そしてそれを原作とした井上雄彦(1967〜)の漫画、『バガボンド』(1998年〜)などがある。

また、60歳、晩年の武蔵が、寛永20(1643)年に人里離れた霊場・金峰山(きんぽうざん)山麓(熊本市西区松尾町平山)の洞窟・霊巌洞(れいがんどう)にこもって書き記した、地・水・火・風・空の5巻からなる『五輪書(ごりんのしょ)』(1645年)も有名だ。そこには、不敗の剣技を極めた「二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)」、つまり左右それぞれの手に剣を持ち、敵または相手方と対峙する、いわゆる「二刀流」、或いは剣術そのものの心得について具体的に記されているばかりでなく、剣の道を極めることで、最終的に清明な境地に至ることをも説かれている。この書は江戸時代から現在に至るまで、日本国内のみならず、昭和49(1974)年に英訳本、“A Book of Five Rings”が出版されたことをきっかけに、フランス語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・中国語などにも翻訳され、世界中の人々に「武士(もののふ)」の心や生き方を示してきた。

武蔵と同時代を生き、ひと時代を築いた剣豪に、大和國柳生庄(現・奈良市)の柳生宗矩(やぎゅうむねのり、1571〜1646)がいる。宗矩は徳川家の剣術指南、そして大目付役を務めるなど、自身が極めた剣の道をもって、江戸幕府で重要な地位を占めた。寛永13(1636)年には、当時65歳だった宗矩は大名となり、「柳生藩」の藩主となった。そして1万2千500石の所領を得るほどまで上り詰めた。

その同時期、寛永14(1637)年、肥前国島原(現・長崎県島原市)と肥後国天草(現・熊本県天草市)のキリシタン一揆で知られる、島原の乱が勃発した。それは藩内で抑えることが到底不可能な状況となっていた。当時54歳だった武蔵は、寛永3(1626)年頃から養子の宮本伊織(いおり、1612〜1678)が仕えていた、播磨国明石(現・兵庫県明石市)から小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に移封(いほう、国替え)された小笠原忠真(ただざね、1596〜1667)の命を受け、共に鎮圧に向かった。30歳半ばから40歳ごろまで、武蔵は播州明石で小笠原家の客分として仕えていたものの、小倉移封を嫌い、一旦小笠原家から離れていた。そして尾張国(現・愛知県)や江戸で、兵法者としての仕官を求めていた。残念なことにそれは叶わず、伊織の元に行くことを決めたという事情だっただけに、乱の制圧に向かう武蔵は、必ずしも晴れやか、或いは勇ましい気持ちではなかったと推察される。

しかも乱が平定されるまで、およそ5ヶ月もかかった。それは、一揆を起こしたキリシタンたちの結束心が固かったことに反し、「いくさ」の時代から時を経た侍たちの気の緩み、そして実践的な訓練や技量そのものの不足があったためだと考えられている。

■成り上がったあとに訪れた宮本武蔵のターニングポイント

武蔵自身が17歳の時、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際、養父で当理流(とうりりゅう)兵法を唱えた美作国の武人・新免無二(しんめんむに、生没年不明)と共に当初は、主君の新免宗貫(むねつら、生没年不明)に従って西軍(石田三成方)で戦った。しかし戦いに敗れ、九州で挙兵した東軍(徳川家康方)の黒田孝高(よしたか、1546〜1604)を頼り、豊前国の中津(現・大分県中津市)に下った。武蔵たちにとって幸運だったのは、孝高は石垣原(いしがきばる、現・大分県別府市)の戦いで勝利を収めるなど、現在の北部九州地域で大きな存在感を示していた。最終的に東軍の勝利に終わった戦いの後、武蔵は黒田家に仕えることを選ばず、武者修行の旅に出るべく、京都へ旅立った。その後、33歳になった慶長19(1614)年、武蔵は徳川方で、大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも参戦した。このように、「偶然」または「みんな、そうだ」と言われればそれまでだが、時代の空気に影響、或いは翻弄されたことが、武蔵自身の剣術の上達を強く後押しした事実は否めない。しかし島原の乱において武蔵は、天草勢の投石を脛に受け、思わぬ大怪我をしたと言われている。

それが天下無敵の「武人」として生きてきた、武蔵のターニングポイントとなったのだろうか。その2年後、寛永17(1640)年、57歳となっていた武蔵は、兵法好きで知られた熊本の細川忠利に客分として招かれることとなった。それは、もともと忠利が熊本へ移封となる前は、小倉藩の藩主だったことがきっかけだったと言われている。小倉藩の筆頭家老となっていた養子の伊織は4千石の俸禄を得ていたものの、武蔵は何の役職も得ることはなく、「堪忍料」としてわずか3百石を得るのみだった。とはいえ武蔵は、翌年の2月には『兵法三十五箇条』を記し、忠利に献上した。残念なことにその翌月に、忠利は亡くなってしまった。短い間だったが、武蔵は療養のために温泉に滞在していた忠利のお供をしたり、正月の謡(うた)い初(ぞ)めに出席したりするなど、忠利と剣術以外での交流の時も持っていたという。

その後の武蔵は、藩士たちに剣術を教えたり、連歌・茶の湯・書画・細工物をつくるなどの文芸活動を行なったりしていた。それに加え、臨済宗妙心寺派であった泰勝寺で禅の修養も行い、「二天」の法号も賜った。そして自分の人生の総まとめをすべく、『五輪書』をしたためていた。しかしたった1年ほどで手足がしびれるなど、病が重篤となっていた武蔵は、それを聞き知った忠利の長男で三代目藩主となっていた光尚の命によって、城下に連れ戻された。しかし、武蔵の快癒は叶わなかった。

■宮本武蔵の遺言といわれる獨行道とは

武蔵が最後に残した「獨行道」は以下の通りである。

 一 世々の道そむく事なし(世間のあらゆる時代の全ての道にそむくことはない)

 一 身に楽しみをたくまず(個人の楽しみを追求しない)

 一 よろづ依怙(いこ)の心なし(全てに偏った心を持たない)

 一 身をあさく思ひ世を深く思ふ(自分を軽く思い、世の中を深く思う)

 一 一生の間よくしん思はず(一生の間、欲心を抱かない)

 一 我事において後悔せず(自分のことを後悔しない)

 一 善悪に他をねたむ心なし(いいこと悪いこと、他人を妬む心はない)

 一 いづれの道にもわかれをかなしまず(どんな道でも別れを悲しまない)

 一 自他共うらみかこつ心なし(自分にも他人にも、恨み嘆く心はない)

 一 れんぼの道思ひよるこころなし(恋慕の気持ちを思い巡らせる心はない)

 一 物毎にすきこのむ事なし(物事の好みはない)

 一 私宅においてのぞむ心なし(自分の家に望みはない)

 一 身ひとつに美食を好まず(我が身ひとつであるため、美食を好まない)

 一 末々什物となる古き道具所持せず(後の世で貴重品となる古道具は持っていない)

 一 わかみ(原文ママ)にいたり物いみする事なし(自分の道を極めるために、死や禍々しいことを避けるようなことはない)

 一 兵具は格別よ(原文ママ)の道具たしなまず(兵具は特別なものを使わない)

 一 道においては死をいとわず思ふ(自分の兵法の道においては、死を厭うことはない)

 一 老身に財宝所領もとむる心なし(老いの身の自分には、財宝や所領を求める心はない)

  一 仏神は尊し仏神をたのまず(仏神は尊いが、仏神に頼ることはない)

 一 身を捨ても(原文ママ)名利(みょうり)はすてず(自分自身の命を捨てても、自分の栄誉を捨てることはない)

  一 常に兵法の道をはなれず(常に兵法の道から離れない)

■宮本武蔵の見守りとは

このような「重い」、「堅牢」な心、そして恩義を忘れずに感謝していた武蔵から「見守られていた」熊本藩の人々は、本当に「守られていた」のだろう。しかも、大政奉還後の明治10(1877)年、薩摩の西郷隆盛(1828〜1877)が挙兵した西南戦争の折に熊本隊を結成し、その副隊長に就任した松浦新吉郎(しんきちろう、1828〜1877)という志士がいた。半年以上続いた戦いは最終的に、官軍側の勝利に終わった。新吉郎は長崎で刑死することになったのだが、「武蔵塚で眠りたい」という遺言から、武蔵塚公園の裏手の墓所に眠っている。武蔵のようにあろうとした新吉郎も、武蔵のそばに仕え、「見守っている」のだろう。

幕藩体制は155年前に崩壊し、見守るべき対象を失って久しい武蔵だが、果たして武蔵は令和の今、何を、誰を見守ってくれているのだろうか。旧熊本藩が治めた「場所」の地霊(ゲニウス・ロキ genius loci)となって、人々の発展や幸福を祈ってくれていると信じたい。

■参考資料

■宮本武蔵遺蹟顕彰會(編)『宮本武蔵』1909年 金港堂書籍
■高山菊次(編)『宮本武蔵遺稿 原本五輪書』1939年 教材社
■紫藤誠也「宮本武蔵の『独行道』」九州大学国語国文学会(編)『語文研究』24号 1967年10月(21-41頁)九州大学国語国文学会
■荒木精之『熊本歴史散歩 城下町の変遷』1972年 創元社
■「ドリフ大爆笑:過去の放送 #65『戦い』」『BSフジ』1984年2月28日放送 
■島田貞一「宮本武蔵」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第13巻 1992年(505-506頁)吉川弘文館
■「北九州に強くなろうシリーズ No.15 手向山の「小倉碑文」で読む 剣聖武蔵と養子伊織」『博多・北九州に強くなろう』通巻88号 2003年6月 西日本シティ銀行
■山本博文(監修)『江戸時代人名控 1000』2007年 小学館
■入野信照(監修)『学校で教えない教科書 面白いほどわかる 五輪書』2009年 日本文芸社
■熊本県高等学校地歴・公民科研究会日本史部会(編)『歴史散歩 13 熊本県の歴史散歩』2010年 山川出版社
■渡辺誠『[新訳]五輪書 自己を磨き、人生に克つためのヒント』2010年 PHP研究所
■新井邦弘(編)『歴史群像シリーズ特別編集 【決定版】図説 侍入門 江戸下級武士を知る手引き』2011年 学研パブリッシング
■芳賀靖彦(編)『学研まんが NEWS日本の歴史 別巻 人物学習事典』2013/2015年 学研プラス
■奥山景布子(著)・RICCA(絵)『伝記シリーズ 大江戸ヒーローズ!! 宮本武蔵・大石内蔵助……信じる道を走りぬいた7人!』2016年 集英社
■魚住孝至「剣豪・宮本武蔵:その実像と『五輪書』に見る兵法思想」『nippon.com』2019年6月13日
■「五輪書」『日本古典文学摘集』2019年5月1日  
■魚住孝至『NHK「100分 de 名著」ブックス 宮本武蔵『五輪書』 わが道を生きる』2021年 NHK出版
■「コンセントにさすだけの「孤独死防止・見守りシステム」新発売 エストから月額330円、毎日のチェック不要で携帯やLINEに通知」『ロボスタ』2022年9月2日
■「70年前の火災耐えた奇跡の「見守り桜」 今年度中に伐採予定 長野・飯島小」『長野日報』2022年9月6日
■「シリーズ熊本偉人伝 Vol.1 宮本武蔵」(『旅ムック』67号掲載)『季刊旅ムック.com 熊本』
■『武蔵継承 兵法二天一流
■「武蔵塚公園」『ニッポン旅マガジン』
■「武蔵塚公園」『熊本市観光ガイド』
■「西の武蔵塚」『熊本市観光ガイド』
■「立田自然公園」『熊本市観光ガイド』
■「武蔵の墓」『るるぶ&more』

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