根來寺に鉄砲隊あり!「天才」により開かれ戦国の世にその名を轟かせた名刹
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根來寺
根來寺の開祖・覚鑁
和歌山県岩出市にある「根來寺(ねごろじ)」。現在は観光名所として有名ですが、実はこのお寺、戦国時代には激しい戦乱に巻き込まれていました。その歴史をたどってみましょう。
根來寺は新義真言宗の総本山です。大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊を本尊とした寺院で、平安時代の終わり頃に興教大師・覚鑁(かくばん)によって開かれました。
若くして真言宗を収めた覚鑁は非常に優秀な人物で、「空海以来の才」と称されるほどでした。
彼は鳥羽上皇の病を治すことで上皇の帰依を受け、上皇が建てた北向山不動院の開山になったり、荘園を寄進されたりするなど、手厚く保護されていました。
覚鑁が教学復興に努めるようになったのは、真言宗の本山である高野山で、学ぶ意欲がない僧や権力に溺れる僧を目の当たりにしたことがきっかけでした。彼は真言宗の腐敗を憂いたのです。
僧兵+鉄砲!
さて、彼が説いた新義真言宗は真言宗の一派で、従来の真言宗が教えを説く際に像や言葉を使わない「本地身説法」だったのに対して、大日如来が説法のために尊いその姿を表して教えを説く「加持身説法」を解きます。
これは、覚鑁の弟子達が、師である覚鑁の教えをもとに確立させたものといわれています。
根來寺の規模はとても大きく、一番栄えていた頃でその敷地は400万平方メートルに及んでいたことが発掘調査でわかっています。
坊舎は2,700以上、そこに根來衆と呼ばれる僧兵が1万人ほど暮らし、一つの大きな宗教都市を構成していました。
他にも、根來寺が他の寺と大きく違うのは、僧兵で結成された鉄砲隊を擁していた点です。
紀伊国には、根來寺の津田監物算長という人物によって鉄砲が持ち込まれたといわれています。
算長は自ら種子島に渡り、南蛮製の鉄砲と火薬の製法を持ち帰ると、根來に住む鍛冶師・芝辻清右衛門に製作を依頼しました。
日本最古の砲術である津田流砲術の津田とは、この津田監物算長のことをいいます。
そして、いち早く鉄砲を入手し、その量産に成功した根來衆はどんどん勢力を伸ばします。
その勢力は紀伊内に留まらず、和泉や岸和田に及びました。周辺の戦国大名たちも根來衆のことは無視できませんでした。
根來寺の敗北さて、石山本願寺の合戦の折には、根來衆は織田方に就いて活躍します。織田信長が雑賀衆を討伐する際もその力を貸しました。
しかし信長が本能寺の変で討たれると、根來衆は雑賀衆と共に徳川方に就きます。さらに秀吉の留守中に岸和田城に侵攻したことから秀吉の怒りを買い、1585年には秀吉の紀州征伐を受けてしまいました。
根來寺は、雑賀衆の鉄砲隊とともに抵抗しますが秀吉の10万の軍勢に次々と打ち破られて敗北します。
寺の境内は焼き討ちに遭い、大師堂や大塔など数棟を残して焼け落ちてしまいました。現在も大塔には当時の戦乱の激しさを示す弾痕が残っており、明治時代には国宝に指定されています。
境内全体が灰燼と化すような大火の中、これらの塔だけが綺麗に残ったことについては、何らかの意図があると考える説もあります。
参考資料
根来寺 – 岩出市 根來寺の歴史日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan