追悼・アントニオ猪木さん...「永遠に燃える闘魂」79年の生涯で残した伝説をプレイバック!

日刊大衆

画像はイメージです
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 10月2日、八甲田山を望む青森県十和田市の蔦温泉近くの小さな墓地。時折、小雨が降る中、仏花や線香を手にした人々が次々と訪れ、途切れる気配はない。

 ここには、アントニオ猪木が生前、自ら建てた墓がある。今年5月、猪木は墓の建立式と2019年に亡くなった最後の妻の納骨式のため、この地を訪れた。

 墓石に刻まれた「道」と「アントニオ猪木家」の文字。ファンは前日に、この世を去ったヒーローの死を悼み、足を運んでいた。

 1960年代から長きにわたり、人々を魅了し続けたアントニオ猪木が10月1日、心不全で帰らぬ人となった。79歳だった。

 近年、猪木は難病の「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い、自ら「人生最大の敵との闘い」と称する闘病生活を動画で配信。最後までファンに“闘う姿”を見せ続けた。

「何ごとにも立ち向かう心、“闘魂の原点は劣等感と怒りにあった”と生前、猪木は語っています。そこには、主にプロレスに対する世間の目と、1960年に日本プロレスで同日デビューした、ジャイアント馬場という終生のライバルの存在があった」(プロレス誌ベテラン記者)

 元『週刊プロレス』編集長のターザン山本氏は、「猪木さんのプロレスは、馬場さんへの対抗策として生まれた」と語る。

「馬場さんは60年代前半、米スポーツ界で最初に成功した日本人アスリート。いわば大谷翔平より60年早い“メジャーリーガー”。猪木さんは馬場さんのようにアメリカで成功はできなかったし、レスラーとして人並み外れて体が大きくはなかった。だから、同じことをやっていたら馬場さんに勝てないわけです」(前同)

 そこから生まれたのが、力道山流のケンカプロレスと、カール・ゴッチから学んだ英国流レスリング・テクニックを融合させた「ストロングスタイル」だった。

「馬場さんのプロレスを否定するために、武道精神や真剣勝負という価値観を導入した。そうして、日本独自のストロングスタイルを作り上げたんです」(前同)

■「新宿伊勢丹前襲撃事件」で怒りの猪木が誕生

 72年1月、猪木は自らの団体、新日本プロレスを旗揚げする。所属選手はわずか7人、苦難のスタートだった。旗揚げ直後に入社し、83年に退社するまで、猪木と二人三脚で新日本黄金時代を築き上げた新間寿氏は、こう言う。

「猪木には、“誰もやらないこと、誰もやれないことをやろう!”というまっすぐな野心がありました。その気持ちに私も共鳴し、新日本は動き出しました」

 当初、豊富な資金力と外国人招聘ルートを持つ馬場の全日本に遅れを取っていたが、大きな転機となったのが、73年5月に初来日したタイガー・ジェット・シンのブレイクだった。

 シンの名を一躍、有名にしたのが、猪木・倍賞美津子夫妻を新宿の路上で襲った「新宿伊勢丹前襲撃事件」だ。事件当日、仕事で名古屋にいた新間氏は、会社から「社長が襲われました!」との一報を受け、東京に飛んで帰ったという。

「あの事件は、私にも真相は謎です。猪木夫妻は、猪木の弟の啓介と一緒に3人で買い物に出かけた。伊勢丹を出たところで、道の向こうから、ちょうどシンが歩いてきたという。シンは猪木が突然、目の前に現れたから、反射的に襲ったとも考えられます」(前同)

 常軌を逸した暴れっぷりを見せるシンとの抗争はファンの熱狂を呼び、新日本人気は一気に火がついた。

「それまで猪木はゴッチの流れを汲む正当派の闘いをウリにしていたが、シンとの闘いで“怒りの猪木”という新たな魅力が爆発した」(前出のベテラン記者)

 その後、ストロング小林、大木金太郎らとの大物日本人対決を制し、「実力日本一」の呼び声を高めていく。

 若手時代には猪木の付き人を務め、初代タイガーマスクとして一世を風靡した佐山聡氏は、こう言う。

「プロレスラー・アントニオ猪木の魅力は、やはり、お客さんを惹きつける力ですね。それは闘う男としての凄みと、関節技の実力があってこそだと思います」

 アントニオ猪木の輝かしい生きざまの続きは、現在発売中の『週刊大衆』10月31日号で。

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