『現地へ行ってみた』宋にいきたかった源実朝が造ったという船ゆかりの地を歩いてみた【鎌倉殿の13人】

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『現地へ行ってみた』宋にいきたかった源実朝が造ったという船ゆかりの地を歩いてみた【鎌倉殿の13人】

源頼朝の次男として生まれた実朝は、兄の頼家が鎌倉から追放され将軍職を失い、3代目の鎌倉殿を継ぎました。後鳥羽上皇の従妹を正室に迎え、和歌にも精通し蹴鞠も盛んに行っていたので、京との関係は良好にこなしていたのではないかと思われます。

宋に渡りたかった源実朝 『國文学名家肖像集』収録

実朝が、東大寺を再建した宋の僧・陳和卿と御所で対面した際、陳和卿は

「実朝様は宋の偉い長老の生まれ変わりです。私はその方の門弟でした」

と述べたのです。

この話を信じこんだ実朝は大江広元や北条義時が諫めたのにもかかわらず、渡宋の夢を諦めきることができずません。とうとう、陳和卿に宋に渡る唐船を造船するように命じました。

ところが、完成した唐船は浮かばず、砂浜に朽ち果てたと伝えられています。

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現在、藤沢市大鋸には、実朝が造ったという唐船に縁のある神社があります。それは、「船玉神社」(祭神・弟橘姫命)です。

神社がある境内は、かつて実朝が唐船の用材を切り出したところと伝えられ、安全な船旅への願いから勧請された神社といわれています。

実朝が唐船の用材を切り出したところと伝えられる船玉神社

「船玉」とは即ち、「船の御霊(みたま)」のこと。民間信仰でも「フナダマサマ」として、船の守り神として、漁民や船乗りの間で広く信仰されています。

船玉神社の裏には鎌倉方面(海)に向かって川が流れています。このあたりを「大鋸」といい、かつては、大きな縦引きのノコギリを使う職人が大鋸引きの住んだ街でした。室町時代の中頃から大鋸に移り住み、大鋸職人の棟梁であった森家は、遊行寺の造営、玉縄城、小田原城の修築にも関わっていたということが残されています(市指定文化財『森文書』)。

この地域にある山は、「御幣山」ともいわれ、後北条の時代には、玉縄城の支城として「御幣砦(城)」が増築されました。戦国時代には、武田信玄によって奪われたこともあります。

今回たまたまお参りに伺った際、偶然居合わせたご近所の方に「お参りありがとうございます」とお声がけをいただいたので、さっそくお話を聞いてみました。その方によると、新型ウィルス禍以前のお正月には、こちらの神社でも地域の方々が初詣されて甘酒などが振舞われていたそうです。現代でも地域の人たちにとって大切なお宮様だということがわかります。

船玉神社から西に10mほど歩き、右手側の山に登る階段をのぼると、藤沢で1番古い稲荷社といわれている藤稲荷大明神があります。藤稲荷大明神は、藤沢の地名の由来ともいわれているほど、地元では由緒あるお稲荷様です。

お社の横には、公団建設で集められた墓石や石仏が集められていたようです。ところが、現在ではかなり整理されてしまいました。森家のお墓もそのなかにあると聞いていましたが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。

ご近所の方からお話を聞いたところ「昔はあっぱれ日本男児と彫られている墓があったのだけど、あれは何だったんだろう?」とおしゃっていました。

引き続き、鎌倉周辺を歩きます。

参考

ふじさわ宿交流館

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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