日本で初めて“鉄砲”を使った!?島津四兄弟の父・貴久の「生涯」

日刊大衆

写真はイメージです
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 戦国期の島津家は、四兄弟(長男義久、次男義弘、三男歳久、四男家久)の代に興隆した。中でも義久と義弘の名は、歴史ファンの脳裏に深く刻まれていることだろう。

 父から家督を継いだ義久は島津家悲願の薩摩、大隅、日向三国の平定を実現し、天下を統一した豊臣秀吉に屈するまで、ほぼ九州を制圧しかけた。

 その兄をよく支え、九州の桶狭間と呼ばれる木崎原の合戦(宮崎県えびの市)で獅子奮迅の活躍を見せた義弘は、秀吉の朝鮮出兵の際、「鬼の石曼子(島津)」と明国(中国)の将兵らに恐れられ、その武名は海を渡った。

 この四兄弟の父が島津貴久。鎌倉時代から続く島津家一五代目の当主に当たり、江戸時代の歴代薩摩藩主から事実上の祖と仰がれている。

 彼はまた、日本で初めて鉄砲(火縄銃)を合戦で使用した武将といわれているが、事実だろうか。子息たちに比べると知名度で落ちる貴久という武将の生涯とは――。

 彼は永正一一年(一五一四)、伊作島津家の当主忠良の嫡男として田布施城(鹿児島県南さつま市)で誕生した。伊作家は鎌倉時代に初代が宗家から分家して成立。初代が伊作荘(鹿児島県日置市)の地頭になったので、こう呼ばれる。

 貴久が生まれた頃、島津一族は宗家の他、貴久の伊作家や総州家、薩州家、豊州家、相州家に分立。

 このうち、各分家は宗家の意に従わず、一族ではない国衆や他国の大名と通じ、薩摩、大隅、日向を中心とする南九州は混乱の極みにあった。

 宗家は薩摩・大隅・日向三国の守護に任じられていたものの、その地位が大いに揺らいでいたのだ。

 ちなみに、「州」という分家名は、たとえば総州家初代が上総介、薩州家初代が薩摩守などと、それぞれが任じられた官職名にちなむ。

 さて、宗家の勢いが衰える一方、台頭してきたのが分家の中の薩州家だった。当主は実さ ね久ひさ。姉が宗家を継いだ勝久に嫁いでいた関係で、彼の養子となることを望んだ。勝久には実子がおらず、実久が後継となって宗家を乗っ取ろうとしたのだ。

 しかし、勝久は彼の横暴を嫌い、その姉に当たる妻を離別。こうして宗家の勝久と薩州家の実久の対立は決定的となった。

 そこで大永六年(1526)、勝久は、薩州家に対抗できる伊作家の忠良に国政を託し、その嫡男貴久に守護職を譲ったとするのが通説だ。

 貴久は宗家の居城清水城(鹿児島市)に入ったが、以上の経緯に反発した薩州家の実久が謀叛を起こし、貴久は父忠良とともに田布施に逃れざるをえなかったという。この実久との抗争は天文八年(1539)まで続き、貴久の勝利に終わる。

 以上の通説は主に『島津国史』による。この史料は江戸時代の終わり頃、八代薩摩藩主島津重豪の命で造士館(薩摩藩の藩校)の教授が編纂したもの。貴久は歴代薩摩藩主の祖として位置づけられる人物だけに、その行動を正当化するのはある意味、当然のことだ。

 ところが、勝久が伊作家の忠良に国政を託したとする年に彼が忠良に宛てた書状では、庄内(宮崎県都城市)の「指南」、すなわち庄内地方の政治について指導を要請しているにすぎない。とても国政を委ねたといえないのだ。

 今では忠良が嫡男の貴久を跡継ぎのいない勝久の養子とし、宗家を乗っ取るためのクーデターだったと理解されている。やっていることは薩州家の実久となんら変わらない。

 当然、クーデターは実久の反発と挙兵を招いた。宗家の勝久も貴久に守護を譲ったことを悔い、いったん反故にしている。忠良と貴久父子のクーデターは失敗に終わったのだ。

 しかし、そこから父子が反撃に転じ、前述した通り、天文八年に薩州家との軍事抗争に勝利。薩摩半島から、その勢力を駆逐した。

 そして、天文一四年(1545)、一族や重臣に推され、貴久が勝久の跡を継ぐことが決まった。

 こうして父忠良の念願がかない、宗家を乗っ取った貴久は天文一九年(一五五〇)、その頃、居城にしていた伊集院の宇治城(日置市)から鹿児島で新たに築いた御内城に入った。

 ちなみに、慶長七年(1602)に鶴丸城が築かれて歴代藩主がそこに住むまで、この御内城が島津宗家の居城となった。

■新兵器鉄砲をいち早く実戦で使用した武将!

 その後、貴久は本格的に島津に靡な びかない薩摩国内の国衆らを屈服させ、次いで大隅の国衆も従わせた。

 島津氏が薩摩、大隅、日向の守護職を兼ねていても、各国の国衆らを家臣にしていたわけではない。

 この三国の平定は長男義久によって達成されるが、貴久の時代にその基礎が築かれていたのである。

 それでは最後に、貴久が当時の最新兵器である鉄砲を初めて合戦に使った武将かどうかを検証してみよう。

 鉄砲は天文一二年(1543)、種子島に漂着したポルトガル商人から、島の領主種子島時堯が二挺を買い付け、鍛冶職人に命じて複製させたというのが通説。伝来の年をその前年とする説や、種子島に伝来する前に中国人商人によって五島列島(長崎県)へ伝わっていたとする説もあり、こちらも通説が見直されつつある。

 とはいえ、伝来の年は数年ずれるだけと考えられる。

 鉄砲の製法はただちに堺などに伝わり、伝来後、国産の鉄砲が急速に広まっているから、地理的に種子島に近い薩摩や大隅で鉄砲が我が国で初めて実戦使用されるのは当然といえよう。

 薩摩藩に伝わる記録類などから鉄砲の使用例をみてみると、最も早い例が、鉄砲が伝来したとされる年の六年後の天文一八年(一五八九)。

 貴久と島津に従わない国衆との合戦で使用された。場所は薩摩と大隅の国境に近い黒川崎(鹿児島県姶良市)。日本史上、記録に登場する最も早い使用例として注目されるが、鉄砲を放ったのは島津の敵方だ。

 記録上、島津方が鉄砲を使用したのは天文二三年(1554)。こちらも場所は薩摩と大隅の国境近い岩剣城(前同)付近。黒川崎の合戦での鉄砲はあくまで威嚇の手段だったが、このときには攻撃の手段として鉄砲を用いている。貴久が初めて合戦に使ったとはいえないものの、いち早く新兵器を取り入れ、実戦使用した武将であるのは確かだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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