幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【前編】 (2/4ページ)

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山内一豊(Wikipediaより)

文政6(1823)年、庶兄が早世したため彼は嗣子となり、天保12(1841)年に父・正清の死去により家督を継ぎます。そして船奉行として土佐藩に出仕し、のち郡奉行となります。

郡奉行とは、藩の家老の命令を受けて地域の年貢を徴収する重要な役職です。東洋は13代藩主・山内豊熈の側近として期待をかけられていました。

突然の無役に

彼は郡奉行だった頃、土佐藩の民政や藩政改革に参与し、飢饉に備えて年貢米を備蓄しておく蔵屋敷「済農倉」の設立を進言するなどしています。

ところが、1848年に藩主・豊煕が34歳の若さで死去すると突然郡奉行を辞めさせられ、いきなり無役となってしまいます。

東洋は土佐を離れ、嘉永4(1851)年には近畿地方(上方)を遊歴し、伊勢国の漢学者・斎藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎らと交流を深めたりしていました。

また、この頃義理の甥である後藤象二郎の父が病死したため、象二郎を引き取って父親代わりに養育することになります。

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